読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

そこに物語があれば

秋田在住、作家志望兼駆け出しエロゲシナリオライターの雑記

感想「2014年に観た読んだプレイしたもの10選」

 2015年のはじめの月もほとんど終わりかけている今日このごろですが、昨年――2014年に触れた作品の中で、特に印象に残った10作を挙げていきます。
 毎度のように、2014年に発表された作品ではなく、あくまでも僕が2014年に触れた作品ですのでジャンルも年代もバラバラです。

 まずは映画から三作。


・荒野の用心棒

 かつて世界中でブームを巻き起こしたマカロニウェスタンというジャンルを代表する一作にして、黒澤明の用心棒のリメイク。(無許可)あと、エロゲの「続、殺戮のジャンゴ・地獄の賞金首」の元ネタのひとつ。特にオープニング映像とかはまんまオマージュよ。
 ストーリー自体は用心棒の優れたプロットを忠実すぎるほどになぞってまして、ここまでいったらパクリなどと野暮なことは言わずに、原作愛あふれるリスペクトと言ってあげたい。
 もうね、頭から尻尾までとにかくカッコイイ映画でした。
 イーストウッド演じる名無しの男のニヒルな立ち振る舞いは文句なしにカッコイイし、カメラワークもカッコイイし、音楽もカッコイイ。
 特に、クライマックスの決闘シーンへの入りはもはやヒーローの様式美。
 悪党どもが待ち受ける広場へ、立ちこめる爆煙の向こうから静かに現われるイーストウッドの姿は、これまで観てきた映画の中でもトップクラスのかっこよさです。

・荒野の七人。

 こっちはマカロニが付かないほうのウェスタンで、黒澤明の代表作「七人の侍」のリメイク。(ちゃんと許可取ってる)
 これもまたカッコイイ映画でした。
 荒野の用心棒が渋いかっこよさなら、こちらは粋という言葉が似合う気持ちの良いかっこよさ。
 バイオレンスで重苦しい雰囲気の漂っていた本家と違い、スマートかつ軽快なノリで物語は進み、はじめのうちは良くも悪くも軽い印象を受けてしまったのですが、観ていくうちに内包しているテーマは決して浅くないことに気づかされました。
 侍とガンマン、同じく自らの武に頼る存在であることは共通しますが、侍は社会の上位身分としての側面も持つのに対して、ガンマンはどこまでいってもアウトローでしかない。侍は数百年の歴史を築けたが、ガンマンの時代はたかだか数十年の間だけ。
 本家の悪役である野武士がまるで災害か何かのように非人間的に描かれていたのに対し、荒野の7人の悪役である盗賊は、貧しい農民を脅すぐらいしかできないガンマンのなれの果てとして泥臭く描かれる。
 大地に根を下ろす農民たちのしたたかさは本家でも描写されていましたが、銃を持つことの誇り、そして自由と引き替えに安定した暮らしを捨ててしまったガンマンたちの悲哀が組み合わさることで、よりいっそう深みが与えられていたように思います。

リリィ・シュシュのすべて

 ひたすら面白かったギャラクシークエストと、どちらを選ぶか悩みましたが、あとになって思い返したときに、より印象に残っていたのはリリィ・シュシュのほうでした。
 観ていて愉快な気持ちになれる作品ではないです。登場人物たちには、よくないことばかりが降りかかります。
 だけど、感受性に強く訴えてくるとても綺麗な映画だったんです。
 放課後の校舎でどこからともなく聞こえてくるドビュッシーピアノ曲、非現実的に青々しい田園風景、薄もやがかかった茜空。
 色彩鮮やかな美しさとは違う、世界そのものが夕暮れていくような気怠い美しさは、かつて流行ったセカイ系のイメージを強く思い起こします。


 次いで、漫画からは5作。

孤高の人

 孤高に憧れる人にとっての決定版。
 苦難がふりかかるたびに主人公の孤高っぷりに磨きがかかり、ますます研ぎ澄まされていく様は圧倒的で言葉を失いました。
 人生という名の階段を転げ落ちてる? いいや、上ってるんだ。
 孤高と銘打ってるだけあって、ひたすらストイック、そして気高い。
 物語のクライマックス、K2の山頂付近で進退窮まった主人公が本能のまま高みを目指すシーンは、迫力あるシーンの多いこの作品の中でも特に圧巻です。


・ちーちゃんはちょっとたりない。

 2014年、方々で話題を呼びましたね。
「あー、これはたしかに色々と足りてねえや……」と、ため息をこぼさずにはいられない灰色の思春期を描いた傑作。
 実際に足りてなかった人、足りてないというのがどういうことなのか肌感覚として知ってる人は心がざわつくこと間違いなし。
 主人公が女の子なこともあって、僕はこの物語を客観的にしか見れませんでした。だからこそのやりきれなさを覚えてもいて、自分だったらこんなふうにはならない的な男の強がりを持ち出せなかったんです。
 思春期の女の子、それもちょっとたりてない子の無力感は痛いほど伝わってくるのに、どうにもしてやれないもどかしさに胸が苦しくなりました。
 ラストシーンから絶望しか感じとれなかった人も少なくないようですが、僕はそれでもナツの進む先には、スプーン一杯分ぐらいの希望はあるように思えるんです。


さくらの唄

 ちーちゃんはちょっとたりない。が灰色なら、こちらは暗黒青春グラフティ。
 展開の胸糞悪さだけならリリィ・シュシュのすべてよりも上を行きます。
 世の中にとって自分は無価値だと考えてしまったことのある人。無力感に苛まれたことのある人。自身の凡庸さに悶えたことのある人。
 そういうダメな人にとっては何かしら刺さる要素のある劇薬のような作品です。
 でもね、それでいて感傷に溺れないのがこの作品が傑作たる所以でしょう。
 誰も彼も、かなわなかった夢だとか取り返しのつかない失敗だとかを抱えて、苦々しさを噛みしめながら生きてるんだけども、タフなんだななぁこれが。
 だからなのか、不思議と暗くならない。
 クラスメイトの鞄から3000円パクったのがばれて泥棒扱いされようがさ、まだまだ人生は続くんだから生きてくしかねえじゃん。
 死のうと思ったって、ふいにムラッときてオナヌーしたくなったらしちゃうに決まってんだろ。
 そういう泥臭い前向きさが力強かったです。


紫色のクオリア

 発表された時期の関係もあって、シュタゲやまどマギと並べて語られることも多いゼロ年代後半を代表するループものSF。コミカライズの評判がすごく良いもんだから、原作じゃなくてこっちを読んじゃいました。
 物語中盤からの想像力のブーストのかかりっぷりが凄まじくて脳汁がいっぱいでた。
 ここ数年、それなりに物語の経験値を積んでしまったこともあり、先の展開に驚いたことってあまりなかったんだけど、これは素直に驚かせてもらいました。
 でも、あとになってみれば、ギミックよりもキャラクターたちの織りなすドラマのほうが印象に残ってます。アリスが学に銃を向けるシーンとかすごい好き。
 時間も時空も超越する壮大な物語の果てに待ち受けていたオチも爽やかで良かったですね。


日出処の天子

 漫画誌に残る大傑作。読み終わった瞬間、ため息がこぼれた。
 どれだけ才能や身分に恵まれようとも、本当にほしいものが手にはいらないんじゃ幸せにはなれないんだよね。という魂の孤独さが、繊細な心情描写を通して痛いほどに伝わってくる。
 何年か前、秋山瑞人さんの猫の地球儀を読んだときにも近いことを思ったけど、なんともかわいそうな物語でした。
 終盤、一見平静を装いながらも、その実、心がすっかりからっぽになってしまった王子の姿からは寂しさを感じ取らずにはいられなかった。


 最後、小説から二作。

スローカーブを、もう一球

 アスリートたちの一瞬をロマンチシズム溢れる文体で切り取ったスポーツノンフィクション集。
“周囲の人たちは昨日までと同じように歩いていく、それに逆らうように立ち止まってみる。それだけで、人は一匹狼だろう”
 この印象的なプロローグからはじまる「たった一人のオリンピック」というエピソードは特にお気に入りです。
 三浪してようやく大学に入れた普通未満の青年が、ふとした思いつきでオリンピックを目指す。この荒唐無稽さに、はてしないロマンを感じました。
 その他のエピソードもすべて中身が濃いです。
 バッティング・ピッチャーとして裏方に徹する高校野球の元エース。ハングリーさを心底否定する都会派ボクサー。まるで二重生活者のように自動車セールスマンと二足のわらじを履くスカッシュのトッププレイヤー。クレバーな投球で強打者を手玉にとってみせる進学校のエースピッチャー。ストイックに自身の限界へと挑み続ける孤高のポールヴォルター。
 ヘミングウェイの短編小説から引用される締めの言葉は、そっくりそのままこの作品の魅力を物語ってます。
「スポーツは公明正大に勝つことを教えてくれるし、またスポーツは威厳をもって負けることも教えてくれるのだ。要するに……スポーツはすべてのことを、つまり、人生ってやつを教えてくれるんだ」


・聖の青春

 若くしてこの世を去った将棋界の怪童・村山聖の軌跡を追ったノンフィクション。 幼いうちから大病を患い、絶えず死の影に脅かされ続けているにも関わらず、命の火を燃やし尽くすかのように将棋にのめり込んでいく村山の姿は、読む者の胸を熱くするったらない。
 中学校に入ったばかりの少年がですよ、それも体にハンデを抱えた子が「谷川を倒すには、いま、いくしかないんじゃ」って、真剣な眼差しでプロ志望を申し出るんですよ。
 棋士としてもまださしたる実績がないくせして谷川浩二名人打倒を口にするなんて、無謀の一言に尽きるのは事実ですけど、これこそロマンですよ。
 僕は将棋のことは最低限のルールぐらいしかわかりませんけど、そういう人間が読んでも充分楽しめるくらいドラマの濃い作品でした。
 あと、この村山聖をモデルにしているに違いない三月のライオンに登場する二階堂くんの行く末って、やっぱりそうなっちゃうんでしょうかね……。

        ****

 以下、惜しくも次点に甘んじた何作か。

終末の過ごし方

 ちょうど20世紀末だった中学生時代に知って以来、いつかプレイしたいなあと頭の片隅で思い続けてきた作品を10数年越しにプレイすることができました。
 終わることが決定づけられてしまった世界で繰り広げられる期限付きの日常、その気が抜けたコーラみたいなけだるい雰囲気がたまらなかったです。


・邪心大沼

 まるで落語を聞いているかのような独特のゆるさが印象に残ったギャグラノベ
 声を出して笑うほどじゃないけれどもたしかに面白く、地味ながらもしっかり個性の立ったユニークな作品でした。


・ギャラクシークエスト

 かつて大人気を誇ったSF冒険ドラマをドキュメンタリーだと思い込んじゃった本物の宇宙人が、自分たちの星の一大事を救ってもらおうと、ドラマの主役を演じていた俳優たちの元にやってくる。
 この導入部からして面白そうだなあ、と思っていたら、やっぱり面白かった!
 

◎信者枠

・電気サーカス

 唐辺葉介人間失格
"とにかく長生きをすることが重要で、後は大した問題じゃない。幸福であるにしろ、不幸であるにしろ、何を置いてもまず第一に生きなければいけないのだから"
 この一文が綴られるラストシーンのほろ苦さはやっぱり唐辺って感じ。超好き。


◎読んだのが2014年だったのか、2013年だったのかはっきりしなくなっちゃった枠

ゆめのかよいじ
 変わりゆく町、付喪神、ノスタルジー、そこからさらに未来につなげる構成が見事。これも雰囲気が良いんだ。
 2014年に読んだ確信を持ててたら、間違いなく10選に入れてました。


              

雑記、私事「一進一退、そしてまた元の場所」

 今年の悔恨、今年のうちに供養しちゃおう!
 ということで、新たらしい気持ちで新しい年を迎えるためにも、これまでまったく語らずにきた僕にとって今年もっとも重大だった出来事について話そう。
 具体的な名は伏せるが、今年僕はとあるライトノベル新人賞で最終選考に残った。編集部の方から電話もいただいた。
 小説を書き始めてちょうど四年目、ようやくの高次選考通過だった。
 もっとも、結果は云わずもがなだったので、一歩進みかけてやっぱり戻っただけでしかない。いまの僕は相も変わらず、どこにでもいる一作家志望者のままだ。
 ちなみに、レーベルHPでの選考通過者の発表のほうが、編集部からの電話連絡よりも先でした。
 今か今かと連絡を待ちわびる日々を送る中、僕の携帯電話が鳴ったのは、仕事を終えて間もなくの21時53分のこと。
 この通話の内容が、単なる事務的な連絡だけでなくプラスαもあったので、こんな話をしたよー、と参考までに書き記していきます。


 まず一番に話したのが、原稿と一緒に送付したプロフィールの確認。
 これ、全部声に出して読み上げられました。それぐらい書いた項目を一つ一つきちんと確認していきます。住所氏名年齢職業は当然ながら、作品タイトルだって声に出して読み上げられますし、これまでの応募歴についても確認されます。
 それから、原稿のデータの送付方法について。
 これは大していうことはありませんが、よくある新人賞へのデータ応募がテキストデータでなければいけないのに対して、僕が普段使ってる一太郎のファイルをそのまま送っても構わないとのことでしたのでそうさせていただきました。

 で、ここからがあらかじめには想定してなかったプラスαの話。たとえばこんなことを訊かれました。


 ――ライトノベルは結構読まれるんですか? 
「うむ」
 己は条件反射で答えた。事実よく読んではいる。
 そうでなくとも、ラノベ新人賞に投稿しておいてラノベなどあまり読まぬと不遜に答えるのは、どう思慮しても心象がよくないであろう。
 そんな、ささやかな計算もあった。


 ――ちなみに、好きな作家さんとかはいます?

 己は一瞬言葉につまった。
 ラノベをちょくちょく読んでいるとは云った。たしかに答えた。
 しかし、今現在流行ってる作品を読んではいなかった。一昔前のヒット作やマイナー作品がほとんどだった。
 己は流行ってやつを理解してるぜ! とアピールするために、川原某や渡某の名前をとっさに口走るという手もあった。
 だが、嘘を口にしたくはなかった。嘘は致命的な綻びにつながることがある。
秋山瑞人……高畑京一郎……」
「ほう」
 電話の向こうの男が息をのむ様子が伝わった。ニィ、と己は口の端をつり上げた。
 ……と夢枕文体は書きづらいのでこれぐらいにするとして、ラノベで大好きな作品というと絶対女王にゃー様がまず思い浮かんだんですけど、Jさいろーさんはラノベが本業ではありませんし、かといって樹戸英斗さんの名を挙げたって、なつき☆フルスイング! の知名度の低さを考えるとピンとこないでしょう。
 こいつマイナー指向だな! と思われてしまうのは人気作家を生み出したい新人賞でプラスに働くとは思えない。
 ならば、と思い当たったのが、方々で申し分のない評価を得ている秋山瑞人さんでした。猫の地球儀は、僕にとって五本の指に入るぐらい大好きなラノベでしたので。
 もう一人、同じような理由で高畑京一郎さんの名前も挙げました。(Hyper Hybrid Organizationの続き、オレハマッテルゼ!)
 でも、これだけだとアピールが弱い気がしたので、ラノベもだけど美少女ゲームを多くプレイしてきたこともちゃんと付け足しておきました。
早狩武志さんとか瀬戸口廉也さんの作品がめっちゃ好きです!」って本当に云いましたとも。この人たちの作品は僕のアイデンティティみたいなもんです。

 ――この投稿作、どれぐらいの期間で書き上げました?
 これもねえ、一瞬言葉につまっちゃった。筆が速いほうがプロとしてやってく上でプラスになるのは知ってたから。
 とりあえず、「三ヶ月ぐらいです」と答えました。
 別に嘘ではないんですけど、実際はもうちょっと時間をかけてます。ほら、推敲や改稿って、時間さえ許せばいくらでもできますので。


 ――この投稿作、一度でもどこかの新人賞に送ったりしましたか?
 これは本気で答えに迷いました。実は使い回しだったんです。
 やっぱり選考する側としては、自分とこの新人賞に一番に送ってきてくれたほうが気分がいいでしょうから、誤魔化そうかとも思ったんです。タイトルは変更してましたので、過去の投稿歴と詳細に照らし合わせたりしない限りわかりようがないでしょうし。
 ただ、これからパートナーとして密に付き合っていくかもしれない相手に隠し事をするのはどうなのかと、気がとがめたんです。なので、これについてはすべて事実を伝えました。
 少し前、とあるラノベ新人賞の講評で、他賞に応募した痕跡のある投稿作なのに、それについて記述が一切なかったことを審査員から注意されるなんて出来事もあったことですし。


 他には、創作をはじめられてから何年ぐらいになるのかも訊かれましたね。大きく印象に残ってる会話はこれぐらいでしょうか。
 それと、僕に連絡をくれた編集さんは、こちらが恐縮するぐらいに礼儀正しかったです。そういう感じの良さが印象に残ったのもあって、結果こそダメだったものの、決して大手ではないこのレーベルを陰ながらも応援していきたい気持ちはあります。
 2014年、新人賞の最終選考まで残って、だけど落ちて、まったく悔しくないと云ったら嘘になりますけど、気持ちはそんなに暗くないです。
 なあに、僕はまだやれますよ。
          

連載コラム、思い出話「ぼくと、エロゲ 第21話〜from Akita」

「エロゲ専門店、あるらしいよ」
 後輩のYくんがそう云ったのは、2008年8月の真ん中ぐらいだった。なんでも、秋田市にエロゲだけを扱うゲームショップがあるとの情報を掴んだらしい。
 僕はうなずいた。
「ゆこう」
「ゆこう」
 そういうことになった。
 このYくんというのは、2006年に僕にひぐらしを貸してくれた彼であり、エロゲにハマる原因を作った張本人だ。
 それからもう一人、KくんというFate大好きっこの後輩も誘って、彼に車(CJ4AミラージュのRS。純正クロスミッション装備のスパルタンな競技ベース用グレード、当り前のように手動ウィンドウである!)を出してもらい、僕らエロゲ男子三人は真夏の日差しの下、一路エロゲ専門店へと向かったのだった。
 振り返って見れば、すでに2008年ごろにはオタク界隈からエロゲの存在感が徐々に薄れつつあったのだろう。それでも一般ユーザーからしてみればエロゲはまだホットな存在で、ネットの各所や2chで話題に上ることも多かった。
 たとえばそう、僕の住まいは東北の秋田である。紛れもない弩田舎である。そんな田んぼと山林に囲まれたナマハゲとハタハタと熊しか住んでないような土地にすら専門店があったのだから、あのころはたしかにエロゲが流行っていたと云っていいのではないだろうか。
 そうしてやってきた地元のエロゲ専門店は、学校の教室を少し広くしたぐらいの規模だった。ゲームショップとしては平均的な広さ。しかし、棚に並ぶのはすべてエロゲなのだ。壁に貼られたポスターもすべてエロゲだ。エロゲーマーにとってなんとも居心地のいい光景がそこには広がっていた。
 特別に品揃えが良かったわけではない。しかし、エロゲ専門店なるものがこんな田舎にも存在している事実が、エロゲというジャンルの賑わいを現実の肌触りでもって伝えてくれる感じがして、僕の気持ちを嬉しくさせていた。
 僕がそれまで感じてきたエロゲというジャンルの賑わいは、すべてネット回線越しにしか感じたことのないどこか遠い国のお祭りだったから。
 このとき僕は、無料サービスのポスターをもらっただけで、結局何も買わずじまいだった記憶がある。きっと、すでに積みゲーが相当数に上っていたからだろう。(この時期に購入して2014年現在まだ積んでる作品もかなりある……)

(そのときもらってきたマスクドシャンハイのポスターはまだ部屋に貼ってるよ!)

 いかんせん自宅から距離があったので、僕がこのお店に訪れる機会は多くなかった。後々聞いた話によると、2010年ごろにはお店を閉めてしまったらしい。そしてそのころには、エロゲはすでにオタクたちの話題の最前線からすっかり遠のいていた。
 そういえば、2008年ごろの思い出で、エロゲと地元にちなんだ印象に残っている出来事がある。

 かがり火美少女イラストコンテスト、そして秋田県羽後町の名を挙げれば、2008年時点でオタク趣味を患っていた人ならば何かしらピンとくるのではないだろうか。
 簡単に説明すると、羽後町という秋田県の県南部に位置するさほど大きくない街があり、まず前年の2007年に第一回のかがり火美少女イラストコンテストが開催された。
 これは羽後町名物の盆踊りにちなんだ美少女イラストを全国から募集して、お祭りの一環としてコンテストを開催しようという試みだ。
 こういう萌え町おこし的な催しは今ではすっかり全国各地で見慣れてしまったが、鷲宮が話題になるかならないかぐらいの時期だった2007年当時としてはかなり珍しく、ちょこっとではあったがオタク系のニュースサイトに取り挙げられ2chの萌えニュース板にもスレが立った。
 なお、第一回のゲストは前町長と個人的に縁があった山本和枝女史だった。
http://shouichiro.exblog.jp/d2007-06-21

 もうのっけからエロゲ絵師である。
 そして、ささやかだった第一回が好評を呼んだことにより勢いがついた主催者側が、いよいよ萌え町おこしに本腰を入れてきたのが2008年に開催された第二回かがり火美少女イラストコンテストだった。
 当時、エロゲを代表する人気絵師の一人だった西又葵女史をゲストに呼んだ効果もあり、これはオタク系ニュースサイトや2chで大々的に取り挙げられた。地上波でも特集された。
※当時のスレ、そして映像資料。

http://news24.2ch.net/test/read.cgi/moeplus/1205176950/

 そのときの目玉だったのが、名産品や名所にちなんだイラストが描かれたスティックポスターだ。



 

 慧眼の士である諸兄らなら一目でおわかりだろうが、参加イラストレーターの半数近くがエロゲ原画の経験者である。
 仮にいま、オタクにアピールできる人気イラストレーターを集めたとして、エロゲに関わりのある人がこれほど集まりはしないだろう。ラノベだとかソーシャルゲームだとか、もっと一般層に向けたイラストの仕事をしている人が中心になるはずだ。

 あくまでも田舎で催されたイベントの一場面を切り取っただけではあるが、それでも僕は、オタクたちの注目がエロゲに集まっていた時代はたしかにあったのだと思いたい。
 もっとも、印象に残ってると云ったくせして、僕自身は羽後町のイベントに行ってなかったりするんだな。たはは。
 でも代わりにYくんやKくんが現地に行ってきてくれて、そのときに彼らからもらったスティックポスターはまだ手元にあります。
 ちなみに、じゃんけん大会を勝ち抜いたYくんは、西又葵直筆のサイン色紙を見事ゲットしましたとさ。


 
 西又葵さんが袋にイラストを描いたあきたこまちは有名ですけど、珈琲貴族さんがイラストを描いたものまであったのはこのブログを書く際に調べてみてはじめて知りました。


 僕のエロゲ熱が高まったあげく、ニコニコ動画に自作のエロゲ動画を投稿したのも2008年夏のことです。
 自宅で使ってたPen4のPCでせこせこ編集し、仕事が終わってから会社のPCでこっそりと投稿しました。当時としても雑な素人感あふれる動画だったと思います。(苦笑)
 

 ニコニコに投稿されているエロゲ関連の動画でも、特に再生数の多いものは07年、08年に集中しているように見受けられます。
 これもまた一面的なデータでしかないものの、このころはまだエロゲが注目されていた時代だったんですよ。
             

エロゲ感想「君と彼女と彼女の恋。」

 通称"ととの。"こと、君と彼女と彼女の恋。をクリアしたので感じたままを垂れ流していきます。
 未プレイの人にまったく配慮してないので注意。ちなみに美雪ルートしかクリアしてません! (キッパリ)
 

 ととの。がどんな作品だったのかに関しては、詳しく書いてくれてる人が他にたくさんいるでしょうからそちらを参考にしてもらうとして、ととの。という作品は美少女ゲームをメタ化した構造が大きなアピールポイントになってます。
 ゲーム内のキャラクターが自分が作り物であることを自覚していて、主人公を素通りしてプレイヤーである我々に画面の中から語りかけてきたりするんですよ。
 で、そのメタ構造でもって何を云わんとするのかというと、
 わたし(美少女ゲームヒロイン)があなた(主人公ではなくプレイヤー)に永遠の愛を誓ったように、あなたもわたしに永遠の愛を誓ってほしい。
 と、あるヒロインに愛を誓ったそばから別のヒロインを攻略しにいくエロゲユーザーの身勝手さを糾弾するメッセージが発せられるわけですが、これが僕にはどうもしっくりこなかった。
 云わんとしていることはわかる、わかるんです。それでも、モニターの向こう側の彼ら彼女らをただただ見守ることになれた身としては、どうも実感を持てなかったというのが正直な感想なんです。
 だってさぁ、いま世に出回っているエロゲを見渡してみてくださいよ。
 10年遡ったとしてもそうですけど、美少女ゲームの主人公=プレイヤーなんて直結できる時代はとっくの昔に通りすぎてて、我々はそれほど物語に介入できないし、主人公は固有の人格がしっかりと確立されるのが当り前になっている。
 ましてや、ニトロプラスの作品なんかは、数あるエロゲの中でも特に読み物としての傾向が強いでしょう。そういう作品ばかりをリリースしてきたメーカーが、ヒロインをあっさり乗り換えるプレイヤーの不義理を責めてみたって唐突感が否めませんって。
 ツヴァイや九郎ちゃんやロメオさんや悪鬼は、どう考えたって僕じゃないですもん。たしかに選択肢を選んでるのは僕かもしれないけど、能動的に物語を動かしていくのは彼ら自身に他なりません。
 これは萌えゲーや抜きゲーでもそうでしょう。
 滝沢司は僕じゃないし、宮小路瑞穂様だって僕じゃない。デブジさんや迅さんだって同じです。
 そりゃあ、主人公とヒロインがイチャイチャしたりエロいことしてる場面を見つめながら、主人公と自分とを置き換えるような楽しみ方をすることはありますけど、その一方で主人公の固有の人格を認めていかないことには今日日エロゲなんかプレイできません。
 ととの。だってそうですよ。
 物語の後半、美雪が「わたしが本当に好きなのはあなた」とプレイヤーに向かって告白しますが、これ間違ってます。
 美雪が好きなのは、子供時代にクラスで孤立していた自分を救ってくれた心一でしょう。
 ひたすらメタな見方をするならば、そんなのはエロゲにありがちな初期設定にすぎない。と云いきってしまえるかもしれない。
 でも僕はやっぱり違うと思うなぁ。心一を好きになったきっかけが、プレイヤーが関知できない過去にある以上、美雪が好きになるべき相手はプレイヤーじゃありませんよ。
 だったら、選択肢を選ぶプレイヤーではあるけど、主人公に自己投影しきれない僕らはいったいなんなんだろう。と考えてみて思い出したのが、昔アリスソフトから発売された守り神様というゲームです。これは、一家の守り神になったプレイヤーが、家族のみんなの人生がおかしな方向にいかないようにちょこっとだけ世界に干渉したりするゲームなんですが、今の美少女ゲームにおけるプレイヤーと主人公の関係ってこれに近いと思ってます。一家の守り神というよりは、主人公の守護霊に近いかもしれませんね。あるいはDies iraeのメルクリウスみたいなもん。
 あと、メタな視点を入れるなら、プレイヤーのほかに制作者をどう位置づけるのかの解答もうかがってみたかったです。
 こういうエロゲのメタネタって、すでに90年代末の時点でエルフが臭作でやってたというのは有名な話で、ゼロ年代エロゲーマーの僕も伝聞として知ってはいました。
 臭作は、どっからどう見てもプレイヤーが自己投影しづらい汚らしいおっさんが主人公でして、だからこそのメタネタだったと考えていて、僕としてはそっちのほうがしっくりきます。神を糾弾するためにモニターに語りかけるべきは、ヒロインよりもやっぱり主人公のほうが適役なんじゃないかなぁ。

 
 美少女ゲームへのアンチテーゼとか、そういうテーマやメッセージに囚われずに、素直に物語として見た場合の感想も少し書かせてもらうなら、主役はやっぱり美雪だったんだろうとは思います。
 ※2chのほうにとてもうなずける感想が書かれていたので引用。

『アオイ(おそらく明確に導こうとしてるのはエル)が完成させようとしてる本来のシナリオでは、
演じることに慣れすぎて肥大した人気者のペルソナに、本当の自分を抑圧されてるっていう美雪の問題を、心一が演劇の事件で解決して終わるんだけど、
(「舞台が本物で日常がニセモノだと思うようにした」みたいな心理的倒錯を示すセリフがある。
アオイに対する反発も、リアリストだからゲーム脳が許せないんじゃなくて、本当は虚構に依存してるがゆえの同族嫌悪)
一旦、本来の我の強さを取り戻した美雪が、あの世界の構造に気付いちゃったことで、ああなったんだと思う。

最初のルートで、演技の仮面や、舞台っていう虚構の世界に囚われてた自分を、
本当の日常に属する(はずの)心一が、美雪いわく「永遠の愛」の力によって救った。
ところが取り戻したと思った本物の日常が実はニセモノで、手に入れたはずの永遠の愛が失われたと悟った時、
前回の焼き直しで、もう一度、本物の愛の力によって虚構の世界の呪縛から抜け出そうっていう行動原理が生じた。
その為なら手段は選ばないってのが、美雪の本質的な我の強さ。
これはたぶん最初のバッティングセンターの場面の、美雪の打球の描写に象徴されてるように思う。
「白球は一際鋭い角度で夜空に吸い込まれて、消えた。 
四方を囲むハリボテさえも突き破って、そのまま世界の外まで届くんじゃないか、とすら思った。」ってやつ。
バッティングセンターやスイングは、人気者を演じてる美雪が唯一素の自分に戻れるときを示すキーワードだから、
解き放たれた美雪の本質が虚構の壁をぶち破って、その外側のプレイヤーのいる現実にまで手を伸ばすっていう暗示じゃないかと。

自分も他者も虚構のデータだとわかっちゃった所為で、周囲に適応する為のペルソナが完全に不要になった結果、
抑圧されてたシャドウが野放しの暴走状態になってたんだと思うが、
撲殺は、相手がしょせん復元可能なデータに過ぎないって認識の上の行為だし、あそこまでは美雪なりに理に適った止むを得ない行動だったんだと思う。
でも頭でわかってても、完全には気持ちを切り替えきれて無いから、監禁中に何度も心一を殺害させる選択肢を繰り返すと、
精神的に磨り減っていって、初めて本当に発狂寸前に追い詰められる。

なんていうか悪とか既知外とかいうより、とにかく我の強さゆえに自分と周りのキャラクターと、プレイヤーすらも巻き込んで振り回すキャラっていうか。
選ばれなかったヒロインはどうなるのかっていう問いから生まれたのが、メタ的な汎ヒロインのアオイなら、
その一つの答えとしての、じゃあどこまで擬似恋愛にリアリティを持たせられるか、どうしたら泡のように儚いエロゲキャラに命を吹き込めるかっていう主題の為に、
対極として作られた最強の個を持ったヒロインキャラが美雪なんじゃないかと感じた。

ちなみにただのアバター呼ばわりとか散々な心一だけど、一週目の演劇後に、もう人気者演じることやめちゃおっかなーって言う美雪を、
キャラ演じるくらい普通だし、ほどほどでいいじゃんって感じで諌めたりと、美雪にとってバランサー的な役割を果たしてる。
心一は心一で、選択の重みとかのテーマに関わる重要なキャラだし、
両エンド見ないとわかんない部分だけど、プレイヤーの選択で解決した一周目の美雪ルートと違って、
最終的には、友達であるアオイの協力で自分の問題を乗り越え、成長したりもする。
(まっすぐな階段を上るように毎日を生きるっていうと勤勉、実直っぽいけど、
階段だから別れ道は無いってのは、たぶんスコトマの暗喩。あるはずの選択肢が盲点になってて、見えない状態になってる。)
だから、やっぱ心一と美雪が結ばれるのが正しい結末だったんだと思う。

最初は既存のエロゲーを否定するみたいな挑発的なテーマかと思ったけど、結局、美雪ENDで話はあるべきところに落ち着いて、
アオイENDで、アップデートされたのはエロゲーの枠組みじゃなくて、
プレイヤーの意識のほうです的な広がりのあるオチをつけたんじゃないかな。

そういう意味じゃ、アオイはなんていうか、心一と美雪を結びつけたり、
プレイヤーの意識を介して、今作と他のゲームを結びつけたり、何かと何かを結ぶ役割みたいなのを負ってる感じがした。
「選ばれなかったヒロインはどうなるのか」って疑問に、選ばぬなら選ばせてみせようって答える美雪に対して、
選ばぬなら(他のゲームで)選ぶまで待とうと家康風に答えるのがアオイなのかもしれない。

呪いはゲーム的には必要だったけど、途中で美雪本人も自分がされたことに気付いてるし、
嫌なら自力で改変するなりなんなり対処できたはずじゃないかな。
心一にしてもなんか変なこと起きたな程度で、決定的な行動には直接影響してないと思う。

あそこでアオイを止めた場合の結末も、偶然に口論になってそのままおしまいって感じだし、
必然的に話を左右するってより、ライター次第な感じというか。
どのみち最初から両思いの二人の関係進展にとって、どうしても必要な要素だったというよりは、
プレイヤーに、あの選択に加担したっていう共犯者意識を植え付けて、作中に引き込む為のギミックの意味合いが大きい気がした。

監禁中、美雪から呪いによる不幸な未来を見せられても、周回で記憶を失ってる心一にはピンとこないはずだし、
あれは、あくまでプレイヤーに突きつけてるんだろう。
個人的に、呪いかけなかった場合の美雪の女優エンドは、たぶん演技のキスシーンが、本心の心一への想いより優先された結果、
「舞台が本物で日常がニセモノ」状態から抜け出せなくなって、完全に演じることに飲まれたって意味だと思ってる。
あの演劇はそういう重要な分岐点なんじゃないかと。

心一の前でだけは素に戻れるとか、心一から教えてもらったスイングに打ち込んでる時は、
「演技も、嘘も、なにひとつない。無心で、裸の私になれる」とか、(撲殺考えるとすげー皮肉)
心一との繋がりによってのみ、人気者の仮面を外すことができる美雪的には、
この関係が途切れて、スイング練習やバッティングセンター通いもやめてしまえば、
外せなくなった仮面に「裸の私」が取り込まれてしまうっていう感じ。
(ほんとなら人間って、学校や職場での顔とか、好きな相手の前での顔以外にも、
家庭での顔とか、他にもいろいろ別の側面を持ってるはずだけど、そこんとこは一切触れられないし、
無い事になってるか、学校に居る時と同じような感じってことなんだろう。)

つまり美雪は呪いがあろうとなかろうと、最初から心一と結ばれる以外、幸せになれないんだと思う。』

 思うに、人生は階段のようなもので分かれ道はない。と心一が自分に云い聞かせてたように、美雪のプレイヤーに対する告白も、世界の構造に気づいて自分の心の向く先が迷子になっていくなかで、好きという気持ちを信じ続けるために、そう思い込もうとしてただけなんだろう。
 この世界がゲームをあることを理解してしまったせいで、虚構の日常と現実の舞台との間に引かれていた線がなくなり、美雪の我はほとんど暴走といっていい状態で解き放たれた。かつて虚構と割り切っていた日常生活のなかで、唯一現実を感じさせてくれるアイテムだったバットが凶器になるのは重要なポイントだったと思う。
 あと、心一は独占欲が強いみたいな示唆が度々あったけど、美雪は遥かにそのうえをいくよね(笑)
 結局はさ、美雪も心一も、互いにもっと素直に自分の気持ちを認めて、勇気を出して一歩を踏み出していれば良かったんだよ。あれこれ理由をつけたり、肝心なところでプレイヤーに選択を委ねてしまったから話がこじれていったの。
 終盤に心一がプレイヤーに選択を迫るけど、本当に選ばないといけなかったのは、自分の気持ちに言い訳ばかりしてたきみのほうでしょうが!
 でもまあ、そういう煮えきらなかった諸々をラストシーンでしっかりまとめた終わり方をしてくれたので、物語のオチはなかなかきれいでした。
 ととの。についてすいぶんと愚痴っぽいことを書き綴ってしまいましたが、作品としては大いに楽しませてもらいました。特にメタルート突入の際の演出は凝っていて大いに引き込まれましたし、美雪の側に立って物語を振り返ってみれば、恋に臆病な少年少女たちによる青春ストーリーとしてもきれいにまとまってたと思います。
 なんだかんだで、こういう思い切ったことをやれるメーカーってニトロぐらいでしょう。

雑記、コラム「線と点、ようするに親和性の話」

 少し前のことなのですが、きのこやらロミオやら虚淵やら、その辺りのすっかり有名になったエロゲシナリオライター出身の方たちを並べて比較した記事をネット上で目にしたんです。
 その中に、「虚淵は引き出しが少ないよね」といった内容の書き込みがありまして、僕はこれに対して、「いやいや、そんなことねえだろ」と、とっさに反論が口をつきそうになりました。
 だって、僕が知っているのは主にエロゲ時代の虚淵玄作品だけど、殺し屋が題材のハードボイルドアクションに吸血鬼ダークヒーローにサイバーパンク武侠篇に火の鳥オマージュにマカロニウェスタンにと、充分すぎるほど作風はバリエーションに富んでるじゃ……いや待て、待てよ。
 改めて振り返ってみると、たしかに見方によっては引き出しが少ないようにも思えてくる。
 あくまでも僕の主観だが、先に挙げたエロゲ時代の虚淵作品って、バリエーションに富んではいるんだけど線でつながるんですよ。
 何の線といえばいいのかなあ、趣味嗜好の線? 親和性の線? あるいは線でつなげるじゃなくて、ハードボイルドとかサイバーパンクとかそういうジャンル分けよりもひとつ上の階層で同じカテゴリーに括れると云ったほうがいいかもしれない。
 ファントムを気に入った人が、ヴェドゴニア鬼哭街も気に入るのはまったく違和感がないし、同じく名作映画を下敷きにしており、なおかつ銃を扱うジャンゴも親和性が高い。それぞれ違うジャンルのようでいて、それらはとても近い距離に存在している。
 たとえば、題材やトーンが少々違ってもアクション映画はアクション映画だし、ロボットアニメはロボットアニメで、共通するエンタメ的な楽しみ方ってのが根っこの部分にあるじゃないですか。
 ガンダムボトムズエヴァグレンラガンコードギアスも、それぞれ違うんだけど、バトルやロボットといった大きなカテゴリーで括れば同じ引き出しにしまってしまえる。そこにスクライドや特撮が混ざっていても、作品の好みからしたらそんなに違和感はない。
 虚淵作品に話をもどすと、ファントム、ヴェドゴニア鬼哭街、ジャンゴ、これらが同じカテゴリーに入っていることはわかりやすいはずです。
 でも、沙耶の唄だけは趣が少々違う。
 元ネタとなる手塚治虫火の鳥からして、他の虚淵作品の元ネタとはあきらかにジャンルが違う。親和性も高くはない。
 物語自体には虚淵らしさが遺憾なく発揮されてるんですけど、パッケージとして見た場合、他と違って銃だカンフーだといった男の子の好きそうな燃え要素は含まれていないので、あらすじや設定から受ける印象がだいぶ異なります。
 実際に、虚淵作品でも沙耶の唄だけプレイしたという人は多くいます。もしくは沙耶の唄とファントムだけプレイしたという人。エロゲでも、一部のシナリオゲーしかプレイしないタイプの人に多いですね。
 これ、エロゲの中でも沙耶に唄が好きだという何人かの人と話してきての僕の実感です。沙耶の唄やファントムには興味を示してくれるのに、ヴェドゴニアやジャンゴは別にプレイしなくていいやって人がホント多いんですよ。
 ファントム、ヴェドゴニア鬼哭街、ジャンゴ、これらはわかりやすく線でつなげられても、沙耶の唄は違う。離れたところに存在する点です。たぶん、まどマギも点でしょう。
 だから、虚淵さんの知名度がいまあれだけ上がっても、エロゲ時代の作品はそんなに顧みられない。
 

 この文章を書いたきっかけはもう一つあって、それはつい最近再プレイしたクロスチャンネルなんだよね。
 クロスチャンネル最果てのイマの作中には、かなり露骨な夢枕獏の文体パロディが登場するんですよ。
 僕は高校時代に餓狼伝を読みふけってたから一発でわかったんだけど(田中ロミオさんもそうなんだろう。山田一の自伝のタイトルからして餓弄伝だもの)、ネットで検索してみたら、意外なほどにみんな気づいてない。まぁ、気づいててもあえてスルーしてる可能性もあるかもしれないが、おそらく気づいてないだけなんだろうなぁ。
 これ単純にさ、田中ロミオ作品を好む層と夢枕獏の親和性が低いんだろうね。そもそもピンとくる人が少ない。線でつながらない。同じ引き出しには入ってない。
 埋もれてるマイナー作家じゃないよ、人気作家の夢枕獏だよ。にも関わらず、ネタがあんまり通じなかったりするってことは、この親和性の低さってやつは思ってたよりも決定的な断絶なんだろうなぁ。
 これと対象的なのが、SF小説のオマージュをやったときのレスポンスのよさ。
 SF素人の僕からすれば感心しちゃうほどに、皆さんパッパパッパと素早くオマージュ元の情報をライブラリーから引っ張り出してくれる。
 同じジャンル違いではあっても、こっちはロミオ作品を読む層との親和性が高いんだろうね。
 

 ということで、思ったことをただ出力しただけの文章なんだけど、ここから僕が何か教訓を得たとするなら、自分では色々なジャンルを読んでるつもりでも、実はそれって線でつなげられるような親和性の高いジャンルばかり選んでるかもしれないよ。ってことかなぁ。
 よくさ、人から何かオススメ作品を訊かれたときに、そもそもどういう作品が好みなのかを聞き返すことがあるでしょう。でも、ともすればそれって、同じカテゴリーに含まれる作品ばかり薦めてしまいかねないわけですよ。
 自主的に、面白い作品を探そうとするときもそうですね。何か道しるべがほしくて、とりあえずいま好きな作品から線でたどっていってしまう。
 それがダメというわけじゃないけど、線でたどるだけじゃなく、時々は点に飛ばないと、本当の意味での引き出しは広くならないだろうなとは思います。節操がない。と云われるかもしれないけどね。
 意図せず点から点へ飛んでる人たちなんかもいて、そういう人たちってランキングを参考にしてるんです。あと、他人の好みを素直に参考にしてる人なんかもそう。
 とりあえず、上位にランクインしてるなら手を出しとくかー。あの人が面白いって云うなら観とくかー。ぐらいの簡単な気持ちなんだけど、結果としてすごく幅広いジャンルやカテゴリーを押さえてたりする。
 僕自身、エロゲにすごいハマってたころを思い返してみれば、自分以外の感性をあてにすることによって巡り会えた作品も少なくありませんでしたし。それによって楽しみの幅が広がったと思ってますから。
 もし、興味の向くまま、それまでの自分がいかにも好きそうな作品ばかり追っかけていたら、パティにゃんとかゆのはなとか丸戸作品とか、あの辺をプレイすることはなかったでしょう。
 いや待て、エロゲを引き合いに出してる時点でまだ引き出しは狭いか……。                

旅日記、車、私事「さらば、思い出の仙台ハイランド」

 9月7日、夜――。
 僕は思うように寝付くことができず、 自室のベッドの上で目を閉じたままぼんやりと考えごとをしていた。
 午後九時に仕事を終え帰宅し、一〇時には食事を済ませ、そのまますぐ床についた。
 明日のことを考えて少しでも眠っておきたいのに、意識はなかなかフェードアウトしてくれない。
 これはたぶん気持ちが昂ぶっているのだろうね。明日の遠足が楽しみすぎて眠れない子供と同じさ。
 だけど、わくわくばかりでもないんだな。僕は同時に緊張してもいて、明日がやってこなければいいのにとの思いが胸の片隅に腰を下ろしてたりもする。学芸会を明日に控えた子供の心情とでも喩えようか。
 東北でも屈指のテクニカルなレイアウトを誇るあのサーキットを走るのが楽しみで、何日も前から念入りに準備を整えていたのにも関わらず、直前になるとどうしてか行くのがたまらなくおっくうになってくる。
 車が壊れないか心配で、無事帰ってこれるか心配で、そんなに心配ならそもそも行かなければいいのに、それが車好きとしての義務であるかのようにあの場所へ向かわずにはいられない。
 そうだ、そうだった。この、あのころを思い出すとても懐かしい感覚。仙台ハイランドを走る前の日は、毎度こうしてベッドの上で、正反対の気持ちを胸に抱えていたっけな。
 やがて、日付の変わった午前三時半にセットしておいた携帯のアラームが鳴り、僕は浅い眠りから目を覚ます。
 充分に眠れてはいない。が、体調は悪くない。久しぶりの車いじりの反動ともいうべき筋肉痛もすっかりとれた。意識もまずまずはっきりしている。
 僕は起き上がって身支度を調えると、玄関先にあらかじめ用意しておいたヘルメット、ツナギ、ジャッキその他の荷物を車の後ろに積み込んで、旅支度を完了させた。
 時刻は朝の四時をちょっとすぎたところ、辺りはまだ真っ暗でシーンと静まりかえっていて、低いアイドリング音がやけに響く感じがする。暖機運転が済んだらいよいよ出発だ。
 僕の自宅がある秋田県北秋田市から宮城県の仙台までは片道およそ三〇〇キロメートル、これから県境を二つまたがなきゃならない。高速は料金が高いし遠回りだから使わないんだ。いつも下道さ。すんなり行けば五時間とかからずにたどり着くだろうが、おそらく山形に入った辺りで朝の通勤ラッシュに出くわすだろう。
 まあ、いい。きっとそれだって良い思い出になる。楽しんでいこう。
 バケットシートに収まり、手のひらにすっかり馴染んだモモ製のステアリングを握った僕は、ウィンカーを左に点灯させ、自宅前の細い市道から国道一〇五号線へ車を出した。
 進路は南、これが最後となるだろう仙台ハイランドへのドライブのはじまりだった。
 さて、一人きりのロングドライブで気晴らしに付き合ってくれるのは、カーオーディオから流れてくる音楽だ。
 といっても、今回僕はミュージックではなくラジオドラマを旅の友にチョイスしたのだけれど。USBメモリーにたっぷり九時間分詰め込んでおいた。
 まずは諸星大二郎作「夢見る機械」をBGMに、旧阿仁町から西木村にかけての曲がりくねった峠道を走り抜ける。
 機械によって人間の望むがまま都合の良い夢を見させられるというネタはマトリックスっぽいな、などと思いながら、ヒーターのレバーに手を伸ばす。道路沿いの温度計によると、山間部の外気温は一三度まで下がっていた。車内とはいえ、半袖半ズボンじゃ肌寒いわけだ。日中との寒暖差のためか濃い霧も立ちこめている。
 時間帯が時間帯なので、前にも後ろにも他の車の姿はない。もちろん対向車ともまったくすれ違わない。民家も遠く、外灯もポツポツと存在しないほとんど完璧に近いぐらい真っ暗闇に覆われた峠道。山の中に響くのは四気筒ターボの低い排気音だけだ。
 と、ヒーターの操作レバーを触ってて思い出したんだけど、そういや、数日前にラジエターを新品に交換した際に、クーラントエア抜きをきちんとやったつもりで、ヒーターをONにするのを忘れてたぁ!
 クーラントってのはエンジンの冷却水のことでね。こいつを抜いて新しいのに入れ替えたときは、配管に入り込んだエアをポコポコ抜いてあげる必要があるんだな。ほら、空気って熱によって膨張するから、ほっとくと水温上昇時に配管を詰まらせて水が流れるのを邪魔しちゃうのよ。
 で、この作業の際はヒーターの配管にもエアが入り込んでたりするから、ヒーターを全開にする必要があるんだけど、素人のいたらなさですっかり失念してたってわけさ。
 ……まあ、いいや、今さら気にしたって遅いし、たぶんなんとなかなるべえ。
 そんなこんなで峠道を抜け、道路脇に民家の明かりがポツポツ見えてきた辺りで、次のラジオドラマがはじまった。
 高畑京一郎作「ダブルキャスト
 これは昔聴いた覚えがある。たしか高校生のころだったろう。
 作者は云わずとしれた電撃文庫のベテランだ。もっとも、僕自身それを知ったのは、最近になって小説を積極的に読むようになってからなんだけど。(HHOの続刊待ってます)
 何者かの凶手にかかり不慮の死を遂げた川崎涼介。未練を残した彼の魂は、たまたま彼の死の間際に立ち会った少年の体に宿ってしまう。
 少年の名は浦和涼介。同じ名を持つ二人は、川崎涼介の死の真相を追う。
 というサスペンスにSF要素を加えたストーリーに耳を傾けているうちに、だんだんと外の景色が明るくなってきた。
 時刻は朝の五時半過ぎ、国道一〇五号線から一三号線へ、花火大会で知られる大曲市を通過して横手市にさしかかる。霞がかった東の空に、橙色の太陽がその輪郭をはっきりとさせていく。よかった、この様子なら天気の心配はいらないだろう。
 僕は適当なコンビニで一度休憩をとり、バケットシートの座面に低反発クッションを挟み込んだ。僕が愛用するスパルコのバケットシートは、形状は体にフィットしていて背中や腰には優しいのだけれど、尻裏部分のクッションの薄さだけはいかんともしがたく、長時間の連続走行となると尻が痛くなってくるのを経験でわかってるから、そうなる前に対処しておいたのだ。
 早朝の市街地を抜け、秋田と山形の県境へ。
 すれ違う車の数はまだそう多くはなっていないが、歩道をゆく人の姿はポツポツと増えはじめていた。朝の農作業に勤しむ老人、ペットの散歩に出かけるおじさん、部活の朝練に向かう高校生。爽やかな朝の光景を通じて、新しい一日がはじまる気配が伝わってくる。
 県境のやたら長いトンネルを越えると、ようやく山形県だ。

 新庄市に入った辺りで朝の通勤の車が一気に増えだし、ペースダウンを余儀なくされる。これまで気持ちの良いペースで走ってきただけに、ややフラストレーションが溜まるがしかたない。
 まだ仙台までは一〇〇キロ以上の道のりが残っている。
 オーディオから流れるラジオドラマはダブルキャストが終わり、ニニンがシノブ伝のドラマCDに変わっていた。「第一次スーパー古賀良一大戦勃発!」という小杉十郎太ボイスと、まさかの中田穣二演じるのパクマンにニヤニヤしながら通勤の車で混み合うバイパスをゆっくり進む。
 新庄から天童市に入ってもずーっとペースはスローのままで、途中、三度ほど曲がるべき交差点を通り過ぎるといううっかりミスをやらかしながらも、九時ころには仙台まで続く国道四八号線に合流した。
 かつてそうしてたように、もっと早い時間に自宅を出ていれば朝のラッシュを回避できたろうが、そもそもあのころとは仕事の終わる時間も職場も違うのだからやむをえまい。
 まあ、山形と宮城の県境さえ越えてしまえば、目的地はもう目の前だ。
 途中、国道沿いにあったJAのガソリンスタンドでガソリンを満タンにして燃費を計ったら、普段の街乗りではリッター辺り11か12キロしか走らないのに、16キロまで伸びていた。さすが、長距離を続けて走ると違うもんだね。
 県境を過ぎ、道路脇の景色が緑を濃くしてくると、いよいよ仙台ハイランドが近づいてきたなという気分になってくる。
 山奥なだけあって、道は曲がりくねり見通しも悪い。昔、ハイランドを目前にして、道路の真ん中に落ちていた角材をよけきれず踏んづけて左ロアアームとホイールを一本ダメにした経験があるだけに自然と気を引き締めながらのドライブになる。
 目的地まで残り十数キロ。
 そういえば、ハイランドからもっとも近くにあったコンビニはピザ屋へと変貌を遂げていた。はたして、こんな山奥までピザを食べにくる物好きはいるのだろうか。
 ほどなく、道路脇にニッカウヰスキーの工場の看板が見えてきた。はじめて自分一人でハイランドを訪れたときに、入口を間違えてウイスキー工場へと続く道に入ってしまったような記憶があるか、本当にそうだったのかはもはやおぼろげだった。
 そうして、いよいよ仙台ハイランドの入り口が見えてくる。
 

 僕は右に曲がるなり、国道とハイランド入り口の間にかかる橋の上にいったん車を停めた。

 橋の下で口を開ける谷底が深いことは知っていたが、せっかくの機会なのでじっくり見ておきたいと思ったのだ。
 そのとき撮ったこの一枚を見てくれれば、このサーキットがどういう立地にあるのかよくわかるだろう。

 先に述べてなかったが、この日は月曜日、云うまでもなく平日である。
 にもかかわらず、橋の上に停めた僕の車の横を、いかにもな車高の低い車や、いかにもなデカールで彩られた車を積んだローダーが山の上目指して何台も通りすぎて行くではないか。
 まさか混んでる? との思いは的中だった。
 入場料800円を払って足を踏み入れたコース前の駐車場は、すでに一〇〇台近い車で溢れかえっていた。
 いったい何がまさかだったのかというと、この仙台ハイランドという一週四キロのサーキット、R35GT―Rのテストコースに選ばれるなど、規模としては国内でも大きい部類に入るのだが、僕が2009年に最後に訪れたときなどは、なんと僕含めて二台しか走る車がいなかったりしたほど普段は空いているサーキットだったのだ。
 何かイベントがあったときや土日祝などはさすがに混むわけだが、平日にこんなにも混み合っているところを目にしたのは今回がはじめてだ。




 やはり、みんな気持ちは同じなのだろう。もう最後になるとわかって走りにきたに違いない。
 駐車場で隣に停まっていたアルファロメオとフィット、地元仙台市からやってきたというオーナーさんたちと話してみても、「無くすのは惜しいサーキットだよね」ということで意見は一致していた。

 さてさて、やってきたからには走らないわけにはいかんでしょう。
 まずはタワーに行って、申し込み用紙に必要事項を記入する。
 

 走行申し込み用紙にサインするということは、もし事故か何かでドライバーが死んだとしてもサーキット側には一切の責任を請求しません。との念書に一筆入れるのと同じだ。
 この春にサーキットの閉鎖が決まってからも一人が亡くなっている。僕もそうならないように気をつけねば。僕はもう車では死ねないのだから。
 受付を済ませ駐車場に戻った僕は、余計な荷物を車から下ろし、ガラス飛散防止のためのテーピングを車に施してやった。助手席の窓にタイム計測器を貼り付けるのも忘れない。

 ちょうどテーピング作業を終えたころ、走行開始時間になったことを知らせるサイレンが鳴った。それを合図に、ピットに陣取っていたトップバッターの連中がどう猛な排気音を伴いながらパドックへと向かっていく。風に乗って焼けたオイルの匂いが漂ってくる。
 目に映るもの、感じるもの、すべてが心地よかった。
 俺はたしかに、この場所にまた帰ってきたのだ。
 ……なーんて、いざ走り出す前はのんきに浸っていられたんだけどね。いやさ、ブランクってのはああもはっきり表れるもんなんだね。
 俺も行くぜ! って気分全開でコースインしたはいいものの、走り出してすぐに違和感を覚えたわけよ。
 まずね、一つコーナーを曲がっただけで気づいたんだけど、車がやたらぐにゃーってロールするの。ロールってのは言葉通り傾くってことね。
 あれっ? と首を傾げてみて、すぐに原因に思い当たった。ショックアブゾーバーの減衰力が街乗りのときのままじゃ踏ん張りがたりないのも当然です。
 こういう走る前の習慣としてやってたことを忘れてるようじゃ、ピリッとした走りなんか期待できるはずもなし。
 試しに二周だけして、すぐさま駐車場に戻ってボンネットオープン、一番細いマイナスドライバーでちゃちゃっとアッパーマウントに付いてるダイヤルを回して減衰力のセッティングを変更、そしてコースインしなおしたものの、もうお話にならないぐらいダメダメ。もちろん車じゃなくて俺が。
 頭でイメージしてる走りに、気持ちと腕がまったくついてこない。はっきり云っちゃうとビビリまくり。人間って生物が、デジタルになれないことを痛感する。
 よくゲームなんかだと、貯まった経験値は減らないし上がったレベルは下がらないもんだけど、現実はそうはいかない。
 以前はできていたことが思うようにできない。心のどこかでストッパーがかかるんだ。
 五年ブランクあったアマチュアが、一六〇キロからフルブレーキングでシケインに突っ込んで、シケインの真ん中で一瞬だけアクセル全開にしてまたコーナーに突っ込むなんてことをポンと思い出したようにできるはずがなかったのさ。

 気温が高くなってきただとか、タイヤが7年落ちで熱を加えまくったネオバだったとか、そういう車側の問題も多少はあったけど、それにしたってここまで腕が錆びてるとは思わなかった。
 あとね、昔から愛用してたグローブが、五年間もほっといたからなのか、すっかり皮が劣化していて履くたびに手のひらに黒い粉がびっしりくっついてくるという事態に見舞われたのも地味にまいった。(このグローブは供養のつもりで、走行後にハイランドのゴミ箱に捨ててきました)
 そんなこんなで、結局、台数が多いせいでコース上でのトラブルによる赤旗中断も多くて、午前中は一〇周も走れないまま走行時間が終了してしまった。
 一〇年近く前に、はじめてハイランドを走ったときよりはマシだったろうけど、およそ満足からは遠い内容に、僕は昼の休憩時間中、ずっと自分に憤っていた。
 なんたるザマだ。ってね。
 でも、それが不快かというと、そればかりじゃなかったりもする。
 日常生活の中で、こうも正直に自分に腹を立てることなんて滅多にないから、本気になってる自分というのが実感できて悪い気はしない。
 俺は、せいぜい楽しんでやろうと開き直って、午後の走行に臨むことにした。
 五年前にリビルトに載せ替えてからまだ三万キロ弱しか走ってないのもあって、エンジンの調子はいい。水温、油温、油圧もぴたっと安定している。
 壊れてくれるなよ。と祈りながら、再度コースイン。今度はちょっと気合いをいれてコーナーをせめてみる。
 ホームストレートからシケインへのアプローチ、ブレーキはなかなか詰められないけど踏むべきところはきっちりアクセルを踏むようにする。


 バックストレートからのシケインはアクセルオンで抜け、左、右と連続する登りコーナーをアクセルとステア操作だけでクリア。

 続く下りながらのスプーンコーナーには早めにインに飛び込み、一度アウトいっぱいまで膨らんでから、出口でまた鼻先をインに向ける。

 少しずつ感覚を思い出していきながら、愛車との共同作業を大いに楽しむ。
 と、ホームストレートに続く最終の右コーナーで、前を走っていた86(AEのほう)が突然白煙を吹いた。一瞬、白く染まる視界。おそらくエンジンブローだろう。ほどなく走行中断の赤旗が振られたので、ここは駐車場に戻る。
 それからまた二度ほどコースインし、少しはあのころの影を踏めるようになったかな、と思った頃合いで、僕にとって最後のハイランド走行は幕を閉じた。
 走ったのは、のべ三一周。本日の走行料金は一週三〇〇円だから、計九三〇〇円也。
 走行時間が終わり、僕が車のテーピングを剥がしていると、隣に停まっていたフィットのドライバーさんが別れの挨拶をしにきた。
「じゃあ、もしまたどこかで会うことがあったら、そのときはよろしく」
 僕より年上の彼は、そう云い残して先に帰っていった。
 僕は会釈を返しながら思った。
 おそらく、彼と再び会うことはないだろうな、と。仙台ハイランドという場所を介した、その場だけの走り仲間。一期一会とはそういうものだ。
 時刻は五時の手前、山の日暮れは早く、すでに太陽は西に沈もうとしている。
 僕は最後に、記念撮影のために解放されたホームストレート上で愛車を写真に収めて、再び三〇〇キロの帰路についた。

 この日記を投稿した今日、二〇一四年九月一五日を最後に、仙台ハイランドレースウェイは二八年の歴史に幕を下ろす。
 杜の都を見下ろす山々に、騒がしくも賑やかなエキゾーストノートがこだますることはもうないだろう。
 

連載コラム、雑記、思い出話「ぼくと、エロゲ 第20話〜瀬戸ナントカさんすごい・2008夏〜」

 たとえば、それらの作品のいったいどこをそんなにも好きこのんでいるのか訊かれたとして、その問いに上手く答えてあげられるだけの言葉を僕はまだ持っていない。
 彼の紡ぐ醜くも美しい物語のどこがいったいどうしてそんなにも好きなのか、いくら頭で考えてみたって納得のいく言葉が浮かんでこないのだ。
 無論、一応のそれっぽい単語を並べることぐらいはできる。人が人であるがゆえの苦悩を描いているとでも云っておけば、いかにもわかってる風な読者を気取れるだろうか。
 でも、そういうのじゃないんだ。
 彼の作品を素晴らしいと感じたのは、こざかしい頭なんかじゃなく、僕の中のずっと奥にある心なのだから。
 だから、僕はせいぜいつたないなりに言葉をつくして、彼の作品との出会いを語ろうと思う。


 あのころ――2008年。
 シナリオを基準に面白いエロゲの評判を探して回る中で、彼の名前はちょくちょく目にしていた。
 
 “瀬戸口廉也

 こういう、作品名よりもまず本人の名前が先に挙がるタイプのライターはそれなりにいる。往々にして個性が作品にも反映されているタイプだ。
 僕は当時すでに、麻枝もロミオもめておも虚淵も早狩も丸戸も健速も東出もすかぢも、名前で語られるようなライターの作品はどれも一作以上はプレイしていたので、ある程度はエロゲーマーとしての経験値が溜まった状態で瀬戸口作品に手を出したことになる。
 つまり、ちょっとしたことじゃいちいち驚かなくなっていたわけだ。
 なので正直に云ってしまえば、瀬戸口作品とのファーストコンタクトに大した驚きはなかった。
 
 CARNIVAL

(このOP FULLはすばらしい編集のMAD動画になってますので、ぜひ観てほしい)

 いじめられっ子の主人公が、呼び出された先の屋上でふいに意識を失ったと思ったら、気がついたときには自分をいじめていた先輩が目の前に血まみれで倒れていて、そのまま殺人容疑をかけられてあえなく御用。と思ったら、なんか知らないけど護送のパトカーが事故にあったみたいで、チャンスチャンス今脱走チャンス!
 という逃亡サスペンスなあらすじのこの作品が、僕にとっての初瀬戸口でした。
 先に述べたように、ファーストコンタクトのインパクトは期待していたほどではなくて、のっけから、いじめに殺人容疑に脱走に、とただならぬはじまりかたをしたわりにはどこか緊張感を欠いていてドタバタしており、展開もさして起伏に富んではいないときては、このジャンル分けしづらい作風をどう受け止めればいいのか戸惑っていたんです。
 目にとまったところといえば、冒頭から綴られる、どこか斜に構えた、それでいて多弁でとぼけたような一人称の文体が印象的なことぐらいだった。

 
 マイナーな邦画によくある、ちょっとバイオレンス風味なコメディみたい。
 というのが、全体の2/3をプレイし終えた時点での率直な感想だった。評価としては、そこそこ、ぐらいか。
 ただ、全体としての流れは相変わらずドタバタしているのに、三章構成の二章目に入ってから、妙に生々しくて重たいネタが目につきはじめていて、モニターと向き合う眼差しがだんだんとシリアスよりにシフトしていくのに気づいてはいた。
 そして、僕を一瞬で瀬戸口廉也作品の虜にしてしまったCARNIVALの三章が幕を開ける。
 物語の終章であるCARNIVALの三章の語り手は、主人公ではなく幼なじみのヒロインだった。

 なぜ、こんなにはっきりと覚えているのでしょう。

 
 三章冒頭、この一文からはじまる彼女がまだ幼かったころの思い出話は、マウスのボタンをたった数クリックするだけのほんのわずかな時間で、僕の心をわしづかみにしてしまった。
 あれほど人間の寂しさが滲み出た文章はそうそうお目にかかったことがない。
 ↓に貼った壁と欄干のくだりなどは、改めて読み返すとたまらなく胸が苦しくなる。


 萌えも燃えも泣きも鬱も、ひと通り味わった。
 だけど、このCARNIVALをプレイして受けた感動は特別だった。
 


 
 身も蓋もない云い方をすれば、内罰的で真人間の仮面を被って生きてきた人間の内側を淡々と見せられただけなのに、直感で僕はこれがどこか他人事でないように感じたのだ。
 自身を顧みて、何か生い立ちに特別の共通点があったわけではない。考え方だってそんなに似ているわけじゃない。でも、物事に対する感じ方はよくわかる気がした。あくまで、気がしただけだが。
 そもそもが、三章の視点者であるヒロインにだけ感情移入したわけじゃない。どの登場人物も、それぞれ口にする言葉に自分が滲み出ていて、僕はその度に彼らのことがなんとなくわかる気がしたのだ。


 どうせ他人事で、作り物のお話のはずなのに、僕はあの人の作品に触れているとき、誰かの心の中を暴き、また自分の心の中を暴かれているような気分に襲われる。
 あの人の作品と出会うまで、たかが文章というものが、たかが言葉というものが、こうも強く心を揺さぶることがあるだなんて考えたこともなかった。
 そういった想いは、他の瀬戸口廉也作品をプレイしていくのにつれてますます強くなっていく。
 

 未曾有の大災害に見舞われ、世界から孤立した街を舞台に繰り広げられるサバイバル群像を描いた“SWAN SONG”

 
 白鳥の歌と銘打ったこの作品は、サスペンスとしての面白さにも富んでいて、エンタメ性も考慮した場合、瀬戸口廉也作品の中でも一番の傑作ではないだろうか。

 
 文明崩壊という極限の状況下にあって、人間性をむき出しにしながら自らを貫き、神だとか運命だとか云うばかげた幻想にあらがう彼らの姿は神々しさを帯びていた。


***


 パンクロックを題材に、青春の迸りとその行き着く先を描いた“キラ☆キラ”

 SWAN SONGが天を睨みつけ神に立ち向かう物語なら、キラ☆キラはとにかく地面へと目を向け人間の悲喜こもごもをありのまま描き出す。



 
 否が応でも生きるとは何かを考えざるをえない極限状況ではなく、緩やかに時が進む、ありふれた幸せと不幸せとで満たされた世の中だからこそ、ときには回り道をして、ときにはみっともなく彼らは真剣に人生と向き合う。



***

 ……と、ここまで書いてみましたけど、早狩武志さんについて語ったとき以上にうまく言葉が出てこねえや。
 というか、瀬戸口廉也さんの作品が好きな人で、どこをどう好きなのかをすらすら話せる人なんているのかな?
 〜〜の台詞が良かったとか、〜〜のシーンが感動したとかならまあすらすら云えますけど、どうして好きなのかの本質にはなかなかたどり着ける気がしない。
 はっきり云えるのは、僕は瀬戸口さんの人間の描き方がすごく好きなんですよね。
 この人の描く登場人物って、血が通ってて生温かい感じがします。
 ただ、すべてがリアルというわけではなくて、エロゲのテンプレとは方向性がまったく違うんですけど、やっぱり物語用にデフォルメされてはいるんです。
 ちょっと業を背負い過ぎちゃってるところはある。
 でも、オーバーに表現されてはいるんだけど、その根底には紛れもない生の感情があるのもまたよくわかる。あれ全部、想像力だけで書いてるんだったらそれこそモンスターですよ。
 あとは、登場人物の配置のさせ方もすごく好き。
 瀬戸口作品って、要はそれぞれの生き方のせめぎ合いみたいなものだと思うんです。
 ぶつかろうと思ってぶつかっているわけじゃないんだけど、どうしても相容れることができない者が出会ってしまう感じかなあ。
 何にしろ、あなた個人がその考えを信じるのは自由だけど、それは絶対じゃありませんよ。とでも云うように、カウンターを食らわせようとしてくる。
 これをエゴを押しつけるためだけじゃなくて、背負った業をおろしてやりたいがための優しさとして相手の考えを否定してあげたりするのが瀬戸口さんらしくてまたすごく良いんですけど。
 CARNIVALで、内罰的な考えに囚われて自分の存在を否定してしまいたくてしょうがない理沙に対して、攻撃性の塊みたいな武が、「いること自体が悪いやつなんかいるか」と開き直った言葉をかけてあげるシーンなんかは特に印象的です。
 

 登場人物たちが、結局は理解しあえないのも良いですね。相手を信じたり、相手の考え方に納得することはあっても、理解はできない。
 それでも、自分と他人を区切る壁はあったとしても、その壁と天井の間には欄間もあったりして、つながってるように思えたりもする。



 僕が思うに、瀬戸口作品に共通しているメッセージって、「生きていることは何にも増して素晴らしい」なんですよ。
 きみの人生あきらかに詰んでるやん! 生きてくほうがよっぽどハードモードやん! と云いたくなるぐらいひどい状況にあっても、死を選ぶことだけは絶対に肯定しない。
 だから、彼らを傍観するしかない側としては、それがむしろいたたまれなかったりもする。
 人生が辛いとわかってて、だからといってポジティブ思考に酔うでもなく、大変なことしんどいことを全部受け止めて生きていく。



 よく瀬戸口作品は、暗いだ鬱だなんていわれますけど、僕にとってこの人の作品の印象は、眩しいほどに前向き、これに尽きますね。
 とりあえず、僕も出来ることなら誰も憎まないで生きようと思います。
「とにかく長生きをすることが重要で、後は大した問題じゃない。幸福であるにしろ、不幸であるにしろ、何を置いてもまず第一に、生きなければならないのだから」と、ミズヤグチさんも云ってたことだし。





※以下、このブログを書くにあたって瀬戸口作品を軽くプレイし直してみて印象に残ったシーン。
 ようするに、僕による瀬戸口節セレクション。
 瀬戸口作品はビジュアルノベル形式にテキストを画面いっぱいに表示してくれるからスクリーンショットを保存しやすいのだ。しっかし、三作それぞれメーカーは違うのに、どれもこの形式にしている辺り、瀬戸口テキストを好ましく評価してくれる人がスタッフにいたんだろうな。
 

その1

●このシーンで僕は昔観たとあるFLASHアニメを思い出しました。
 縁日の金魚すくいですくってきた金魚が、水槽にブクブクがなかったせいで次の日になったら死んでた。というお話なんですが、それにショックを受けたキャラが云うんですよ。
「死ぬほどつらかったなら、どうして死ぬ前につらいって云わないんだ」
 当然のごとく、「いや、そもそも金魚はしゃべれないから」と、別のキャラからつっこみが入るのですが、
「死ぬことでしか苦しいって云えないのか。ばかだなこいつ……」って、哀れんだ様子でこぼすんです。
 どうして苦しい痛いってちゃんと云えないんだろうね。でも、大人の猫だと云っても誰も助けてくれないかもしれないからもっと可哀想だね。そう思うともっと云えなくなるね。


その2


●瀬戸口作品によくある純文学っぽい言い回し。この内心を語り過ぎちゃってる感じがとても好き。



その3







●妙に真に迫った遺書。どうやったって相手を救えそうにないのが読み取れて、本気で気が滅入る。



その4




グスコーブドリの伝記についての感想からの、幸せとは何かという問答。
「何がしあわせかわからないです。 本当にどんなに辛いことでも、 それが正しい道を進む中の出来事なら峠の上りも下りもみんな本当の幸せに近づく一足づつですから」


その5



●みんな、幸福に生きればよかったんや。


その6



●そして少年は神に闘いを挑んだ。やはり彼にとっての音楽とは闘うための武器なのだろう。


その7


●ありのままの姿を優しく肯定してあげるというとても残酷な所行。この一見なんでもなさそうな愛情こそ、彼が本当に欲していたものだった。


その8




●絶望と希望の静かなせめぎ合い。いつだったか、わんことくらそうの主人公の話と絡めて語りましたけど、何もかも諦めて絶望を抱えながら生きていくのってどうしても虚無的な何かを感じずにはいられない。多くを望まない楽で賢い生き方だと共感はするんですがね。


その9








●完全なる自由を手に入れた人の独白。
 同じ作者が同じく自由について語っているのに、↓の村上の台詞とは受ける印象がまったく違う。