創作、小説、掌編「たくさんのはじめて」
「800字でつづる掌篇小説の文学賞」四月期投稿作品の二作目です。
こちらも一作目と同じく、四月の最後の休日に急いで書き上げた作品です。
四月は始まりの月ということで、たいした物語ではありませんが「初めて」をテーマにしました。
『たくさんのはじめて』
その日、僕はたくさんの初めてに出会った。
この日は初出勤の日。
真新しい背広に袖を通し、始発電車に乗る。
始発に乗るのも初めてならば、薄暗い明け方の街を歩くのも初めてだった。
何もかもが新鮮で発見に満ちていた。
電車が動き出す。僕は車窓に顔を寄せると窓の外に目をやった。
東の方角、ビルの谷間から朝日が立ち上ってくるのが見える。これも初めて見る光景。その綺麗さに思わず息を飲む。
ふと、ガラスに映る自分の姿を見て気づいた。
しまった! ネクタイをしてくるのを忘れた!
思わず慌てたが予備のネクタイが鞄にいれてあることを思いだしホッと胸をなで下ろす。
だが、問題が一つ。僕はネクタイを自分で締めるのは初めてなのだ。
車窓のガラスを姿見代わりにして挑戦してみるがどうも上手くいかない。今まで妹任せにしてきたことのツケが回ってきたようだ。
「あの、ちょっといいかな」
ガラスに向かって悪戦苦闘していた僕に背中から声がかかる。
振り向くと、いかにもキャリアウーマンといった容貌の女の人が立っていた。
その人は僕の正面に回ると、ネクタイを手にとって巻き方を教えてくれた。
「ここを、こうして……」
丁寧に説明してくれるが、その言葉が頭に入らない。
僕はその人の顔に釘付けになった。
こんな人が本当にいるんだ、と思うほどのとびっきりの美人。僕は一目で恋に落ちてしまった。俗に言う一目惚れというやつ。これも初めての経験だ。
「どう? わかった?」
彼女が顔を上げた瞬間、衝動的にその唇をふさぐ。
僕のファーストキス。
「なっ……!」
驚愕に目を見開く彼女。
しまった! と思い謝ろうとした瞬間、僕の顎に衝撃が走る。
彼女の強烈な右ストレート。
意識が飛ぶ。
思えば、女性に殴られたのも、殴られて失神したのもこれが初めてだった。
そこから先の記憶は、一度意識が飛んだせいで随分とあやふやになっている。だけど、ただ一つ確かなのはこの日、初めて僕に恋人が出来たということだった。
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