コラム、創作練習小咄、映画「キッズ・リターンにSWAN SONGの姿を見た」
心打たれる作品に出会ったとき、人は、その作中でもっとも印象に残った台詞を口に乗せたくなる。
このときの僕は、まさにそんな気持ちだった。
「なあ、俺たちもう終わっちゃったのかな?」
リビングのドアを開けるなり、兄である僕から投げかけられた唐突な言葉に、妹のA美はキョトンとした様子で固まる。頭の上に、疑問符が二つから三つ浮いているのがわかった。
「なあ、俺たちもう終わっちゃったのかな?」
もう一度、同じ問いを投げる。
A美は、「何云ってるんだコイツ」と内心訝しんでいるであろうことが、ありありと見て取れる表情で、
「……よくわかんないけど、お兄ちゃんがそう云うなら終わったんじゃないの」
「………………ていっ!」
「アイタっ!! ちょっと、何すんのよぉ! 人のおでこいきなり叩かないでってば」
やれやれ、ダメだ。まったく通じていない。これだからうちの妹は……はぁ。
「ああっ、なによその顔。すごいバカにされてる気がするんですけど」
「バカにはしていない、妹の無知っぷりに落胆はしているが」
「っていうか、いったいなんなのよ? いきなりなんか云われたってわかんないって」
一理ある。ならば、別の人物ならばどうか。たとえばそう、
「たった今、ドアを開けてリビングに入ってきたもう一人のマイシスター! キミになら通じるかね?」
ドタバタが気になって部屋から降りてきたのであろうB子に、俺は人差し指をビシッと突きつける。B子はさしたる驚きも見せず、眠たそうな半開きの目で、ポーカーフェイスを維持したままコクリと小さく頷く。
「……どうぞ……」
そして俺は、さっきとA美にしたのと同じ問いをB子に投げた。
「なあ、俺たちもう終わっちゃったのかな?」
「……ばか、まだはじまっちゃいねえよ……」
パーフェクトだ!! さすが我が賢妹!
望んだ答えが返ってきたことによる歓喜が、脳天から背中へと奔り抜ける。俺はそのままB子を抱擁した。腕に力を込め、強く。
「……ぃやっ、兄、だめ……。Aちゃんが見てる……」
「構うもんか。全部見せつけてやればいい」
僕は、顔をB子の首筋に埋め、下から上へと、線をなぞるように熱い舌を這わせる。極めて高価な陶器のように白い肌を傷つけないよう、ゆっくり、ゆっくりと。
「……ひぁ! それだめ……。くすぐったいからぁ、だめ……」
B子が、いやいやするように首を振る。だけど、僕は顔を上げず舌を這わせ続ける。首を振ったせいで乱れた、B子のつややかな黒髪からは、トリートメントのものと思われるフレグランスの香りが立ち上っていた――。
などという妄想小咄はこの辺にして、ここからが本題。
小咄のなかで出てきた、
「なあ、俺たちもう終わっちゃったのかな?」
「ばか、まだはじまっちゃいねえよ」
というやりとりを、知っている人はわりと多いんじゃないでしょうか。コピペやAAにもなってますし。
これは何かというと、『キッズ・リターン』という邦画のラストシーンでの一幕なんですよ。
でね、このキッズ・リターンをついこの間観たのですが、いやあ素晴らしい。
映画評論家の淀川長治さんが、邦画は専門じゃないにも関わらず諸手を挙げて褒めていた、というのが頷ける出来の作品だったわけでして。
どんな作品かというと、一言で云って青春群像劇です。
華々しい舞台で活躍する者、底辺であえぐ者。人にもてはやされる者、嘲られる者。主役の二人を軸に、若者たちの二度と戻らない青春を描いた青春映画の傑作ですよ。
1996年の作品にも関わらず、作中の空気が今の時代にも通ずる。いや、むしろ今の時代だからこそ、空虚感、閉塞感が、より強く身にしみる。
それで、今回何が云いたいかというとですね、
「なあ、俺たちもう終わっちゃったのかな?」
「ばか、まだはじまっちゃいねえよ」
というやり取りが、主役の二人がどう考えても完全に終わっちゃった状態で交わされているという点についてですよ。
終わりってなんでしょうかね?
死んじゃうことですか?
まあ、間違ってはいないんでしょうが、それをちょっとスケールダウンさせた”終わり”というのは、今の世の中その辺にごろごろしていると思うんですよ。
リストラだったり、受験や就職の失敗だったり、いじめだったり、災害だったり。
主に、社会的な意味での死亡というか、終わりですね。
でも、社会的に終わったとしても人生は続くわけじゃないですか。
「諦めたら、そこで試合終了だよ」とは云いますけど、試合は終わったって、諦めたって人生は続くわけで。
僕はですね、キッズリターンを観ながら、どうしてかSWAN SONGが思い浮かんだんです。
SWAN SONGという作品は、とんでもない大災害が起きた後の世界を描いた作品なんですが、これってつまりは、終わってしまった後の世界を描いてるんです。
終わってしまったのは社会ですね。
何々という大企業に勤めていた。
すごい高収入を得ていた。
そんな、社会が生きててこそ価値があった諸々が価値を失ってしまった世界。
だけど、自分は肉体的にはまだ死んではいない。
(というか、実際SWAN SONGの作中に、キッズリターンのネタがあります)
たとえばですね、極端な話、明日原発が爆発したらどうしますか?
日本はもう終わりです。ってなっちゃったら。
これが、1、2年で死んじゃえるんならわりと気が楽だと思うんですよ。
だけど、社会は終わっちゃったのに、病院に行きながら30年も40年も生きなさいってなったらどうしますか?
自分や家族が犯罪に巻き込まれたらどうします?
被害者になるだけじゃなく加害者になったりしたら。
まあ、これはさすがに極端ですけど。
だけど、学校とか仕事とか結婚とかその辺のちょっとしたことに目を向けると、意外と僕たちはスリリングな生活を送ってるんですよ。
一流の大学を出て、一流の企業に入ったと思ったら、超絶ブラックでした。だから辞めました。そしたら次の仕事がなかなか決まりませんでした。気がついたら三年も経ってました。履歴書の空白期間の長い僕を、一流企業はもう相手にしてくれませんでした。
車を運転しててついウトウトしてしまったら老人を轢いてしまいました。
気がついたら結婚もせず子供もいないままいい歳になってました。
こういうレベルの”終わり”なら世の中にゴロゴロしているわけですよ。
結局僕が云いたいのはね、
「まだ、はじまっちゃいねえよ」
と強がれる気概こそがこれからの不安定な世の中には大事なんじゃないかと思うんです。
所詮は強がりですよ。
SWAN SONGのラストシーンで、尼子司が死にかけながら、
「僕はまだやれますよ」
と云ったのと同じです。
『しかし、生きていると疲れるね。かく言うワタシも、時に、無に帰そうと思う時があるのですよ。戦いぬく、言うはやすく、疲れるね。しかし、度胸は決めている。是が非でも、生きる時間を生き抜くよ。そして戦うよ。決して負けぬ。負けぬとは戦う、ということです。それ意外に勝負などありゃせぬ。戦っていれば負けないのです。決して勝てないのです。人間は勝ちません、ただ負けないのだ』
(坂口安吾・不良少年とキリスト)
『どのような人間も、決して人生に勝利することはありません。人間は勝利者にはなれません。ただ、降参せずに戦い続けることができるだけです。最後の最後まで』
(田中ユタカ・愛人)