コラム、読書感想文、ラノベ「J・さいろー先生、感服いたしましたの巻」
- 作者: J・さいろー,しろ
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2009/09/18
- メディア: 文庫
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やあ、みんな。
すまないけどはじめに云っておきたいことがある。
今回僕は、J・さいろー先生の「絶対女王にゃー様」という作品についてべた褒めした記事を書くつもりなんだ。
つきあたって、ネタバレとかあんまし自重する気はないから、そこんとこよろしくたのむ。
ほら、そういうのを頭から気にしてたら書きたいものも書けなくなっちゃうときってあるからさ。
さて、本題。
半年前ぐらいにも、J・さいろー先生を持ち上げる記事を書いた記憶があるが、今回もまあ似たようなもんである。
半年前の時点では、この「絶対女王にゃー様」と云うライトノベルの1巻だけしか読めてなかったのだが、先日ようやく全3巻を読み終えることができたので色々書いていこうと思う。
まず、読み終えた感想を単刀直入に云うと、だ。
久しぶりに、胸の奥に秘めている内なるものが共感に震える感覚を味わった。
さらにシンプルに表すなら、感性にしっくりきたとでも云おうか。
素晴らしい。コングラッチレーション。
この歪んだ物語を書き上げた作者に賞賛の拍手を送ろう。
感動し涙をこぼしたわけではない。
手に汗を握り胸を熱くしたわけでもない。
穏やかさが心を温めてくれたわけでもない。
だが、たしかに魂が震えた。
描かれていたのは、人間の外面と内面の剥離。
他人の目から見た自分と、自分だけが知っている本当の自分とのギャップ。
それ自体はわりと見かけなくもない題材だと思う。
「あなたは、あなたのありたいようにあってもいいのよ」
だいたいはこんな感じに着地するし、それが無難だし、そもそもギャップを感じているのなら、結局はそれしか選択肢は選びようがなかったりする。
じゃあ、何がそんなに僕の感性を刺激したのかというと、そこに性の問題を絡めてきたえげつなさだ。
こいつは掛け値なしにすごかった。
どうしてもきれいな言葉で取り繕いたくなるはずのところなのに、遠慮無くダイレクトに本質を突きにきやがった。
優しく微笑みながら、なんでも話を聞いてくれる聖母のような人物がいたとして、そういう人にでも話すことを躊躇ってしまうような、あるいはどうあっても他人には話せないような内なる秘密というのはたしかに存在する。
その最たるものが、”性”の問題だ。
人間の苦悩のなかで、もっとも生々しくて卑しく、それでいてもっとも深刻で根深いもの。
こいつを物語のなかで扱うのには、よほどの覚悟と思い切りのよさがいる。
だいいち、深く切り込めば切り込むだけ、その物語はロマンチシズムに溢れた美しさからかけ離れ、濁りを濃くしていく。
少し具体的に云おう。
きれいな顔をした物語の主人公やヒロインがムラムラきたからといって日課の自慰行為に勤しんでいたら、それを当然のことと受け流すことはできるか。
また、自慰行為のおかずが健全とはかけ離れたものだったとしたら。
それでもあなたは物語にロマンを抱けるだろうか。
そんな劇薬のような題材を、この「絶対女王にゃー様」という作品は躊躇無くあつかっているのだ。
すいません。いったん論調を変えますけど、上に書き連ねたような外面と内面のギャップの問題とか、のっぴきならない性欲の問題とか、その辺に興味関心がない人には、この作品まったくオススメできません。
暗いというよりか、なんかものすごく粘液質にドロドロした作品なんですよ。げーむじゃなく小説のほうでよくある、黒いほうのJ・さいろー節が炸裂しすぎちゃってます。
……本題に戻ろう。
人には、仮面を脱ぎ捨て、本当の自分をさらけだしたい欲求というのが多分に存在すると僕は考えている。
だけど、その欲求を容易に解放できないのがこの世のせちがらさというやつで、社会で暮らすだいたいの人が求められた役割を演じることで本来の自分自身を抑圧している。
だけど、時と場所さえ選べば、一切の仮面を脱ぎ捨てることはそう難儀なことではなく、また、勇気と覚悟さえあれば本当の自分をさらしたまま社会で生きていくことだって絶対無理というわけでもなかったりする。
だが、そこに性の問題が絡んだとするとどうだろう。
みなさんは、変態番付なるものをご存じだろうか。もし、知らなくて、なおかつ興味をもったなら調べてみるといい。
そこには、本当の自分を性的な意味合いでさらけ出した結果、『向こう側の景色』(にゃー様本編より拝借)を覗いてしまった者の末路でいっぱいだ。
リンク http://news.70.kg/%E5%A4%89%E6%85%8B%E7%95%AA%E4%BB%98
そこに加えて、絶対女王にゃー様という物語は主要キャラがそれぞれある種の破滅願望を抱えていたりするのだから、さらに業が深くなっている。
全体の概要としては、ネット上に存在するにゃー様という架空の女王と主人公との間で交わされるSMめいたアダルトチャットを軸に物語は進む。
物語後半で、主人公がにゃー様の命令によって女装をさせられ、なおかつ部屋の入り口のドアに向かって自慰を強要させられるというシーンがあるのだが(隣の部屋には妹がいる)、ここでの、妙に落ち着き払った、それでいて沸き上がる興奮を押し隠しているような心理描写は、僕に得体のしれないシンパシーを覚えさせた。
『今にも妹がドアを開けて、カナエになった輪玖(女装した主人公を)を指差して笑うかもしれない。
いっそ、そうなってしまえばいい。そのときは、上死点に達したこの遊びの向こう側を覗くことが出来るかもしれない。
そう、出来るなら自分の破滅を覗いてみたい。』
わっかるっかなぁ、この感覚ぅ。
破滅したくないけど、破滅しても良いようなこのなんともいえない得難さ。
これ、僕もいつか創作に昇華したい題材なんだけど、社会的な自殺ってぞくぞくするんだよな。
何かを物理的に失うわけでもなければ、傷つくわけでも傷つけるわけでもないのに、社会的には確実に死んじゃうっていう不自然さ。
まさに一線を越えた向こう側。
Welcome to the Newworld!!
他に、この作品を読んでてすごいと思ったのが、セックスという行為の使い方。
なんだかんだいいつつライトノベルの体裁をとっているもんだから、本番を描いちゃうとあまり都合がよくはなかったのだろう。
性に対してものすごく直球でアプローチしてるくせに、セックスそのものは描かれない。だからこそ浮かび上がってくる歪みがあるのだ。
互いに服は脱いでいる。一緒のベッドにも入っている。相手から行為の了承はもらっている。勃起もしている。
――だけど、セックスはしない。
本来ならばするべきときにしない。それはむしろ普通じゃない。それは何か歪で変だ。
「俺はひとりなんだ」
「私もひとりだよ」
作中の言葉を用いるなら、彼らを一人にさせているのは理性だ。
この作品は理性の物語でもある。
感情に押し流されそうになるのを理性で踏みとどまる場面がやたらに多い。
理性によって踏みとどまり、理性によって縛られる。
さて、本当はこの作品の重要なキーとなる、とあるヒロインについても書き殴るつもりだったのだが、これを明かしてしまうと冗談抜きで物語の興を削ぎそうなので、これについてだけは自重させていただくとしよう。
少しだけ語らせてもらうなら、サドとマゾというのはその関係性自体は絶対の上下関係ではないということ。
Mにいいように操られるSだって珍しくないのだということを書き残しておく。
最後に、キャラクターの名は伏せるが、お気に入りの一文を、
「笑顔と性器と生徒手帳。たったそれだけで、いつでも××は破滅できる」
……でも、それって簡単じゃないのよね。ほら、人って理性があっからさ。
余談・この作品、イラストレーターがシンフォニックレインや夏めろで知られるしろさんなんですよね。
そんで、あとがきにさいろー先生がしろさんを指名した理由を書いてるのですが、これが、
「しろさんの描く女の子の瞳は、無垢そうに見えて非常に支配的な感じがする」
というものでして、なんかものすごくわかるなあと僕もうなずいてしまいました。
その辺には、木之本みけさんがシナリオライターを務めた夏めろの印象が強いというのもありますね。
木之本みけさんも、キャラクターの裏表に性の問題を絡めるのが得意な方でしたし。