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そこに物語があれば

秋田在住、作家志望兼駆け出しエロゲシナリオライターの雑記

コラム、エロゲ「上から出すか、下から出すか、それだけの問題」

「泣くのって、射精するのと同じくらいかそれ以上に気持ちよかったりするんだよね」
 といった感じのことを、僕ってばずいぶん前に云ったことがありまして。
 もう、何年前だろ?
 たぶん二、三年じゃきかないと思います。もっともっと前ですね。僕のエロゲ熱がまだまだ滾ってたころの話です。
 あ、当然ながら、エロゲ絡みの話のなかで云った言葉ですよ。泣けるエロゲとかその辺の会話の流れでね。
 それで、この言葉自体は長いこと記憶の片隅に追いやられていたのですが、つい最近ふと思い出すような出来事があったんです。
 連載コラムを書くに当たって記憶を整理する関係で、ちょいと泣きゲーブームについての情報を集めていたらですね、これがなかなか面白い文章に出会えたんですよ。

http://www.eonet.ne.jp/~ong/opinion/h_naki.html

泣きゲー批判」と題された、結構前に書かれたコラムなんですが、ここに書かれている内容を読んでくと、まぁ、目から鱗が落ちる落ちる。
 特にこの記述、

『 「泣く」とは、カタルシスという言葉で表現されるように、気持ちのいい行為である。泣きゲーとは要するに、プレイヤーが極めて受動的に、「泣き」という快感を享受するジャンルの事だ。泣きゲーはプレイヤーを泣かせれば勝ちであって、その「泣き」の快感が「癒し」と呼ばれる。

 …これは、何かに似ていないか? プレイヤーが極めて受動的に、疑似セックスという快感を享受する…。そう、泣きゲーとはオナニーゲーの事だ。泣きゲーは形を変えたオナニーゲーに過ぎず、そのプレイヤーは、精神的なオナニーをしているに過ぎない。』

 僕がかつて、泣くことに対して射精を引き合いに出したのは、どこか本質的に近いものを感じたからだったのですが、それがなぜだったのかの答えを今になってみつけられるとは思いもしませんでしたよ。
 なんだ、結局のところ同じオナニーなんだ、と。
 そりゃあ気持ちがいいわけだ。
 最近はとんと少なくなりましたけど、「エロゲで泣くってww」とか云う人も以前は多かったんです。
 けどね、それに対する答えなんか至ってシンプルで、
「エロゲで抜くことも泣くことも、等しくオナニーで、気持ちいいからやってるんだ」
 これでよかったんですよ。
 まぁ、上から下か、どちらから汁をこぼすかの違いですね。シュッシュッシュッ(何かを擦る音)。
 それに、どちらもより本能というか、人間の中の理屈じゃない部分に訴えかけてきたり、刺激してきたりするわけじゃないですか。
 僕が少し前に書いた連載コラムで、これまでもっとも泣けたエロゲとして三作品ほど初期にプレイしたのを挙げましたけど、あれらも全部がストレートに感情に訴えてくるようなのでしたし。
 ただ、上に貼った記事は、わりとそういうのを否定的に書いてるんですよね。
 そもそもタイトルが「泣きゲー批判」ですから。
 抜くとか泣くとか、そういう本能的な部分にばかり重要視してたら、結局はオナニーの道具以上のものにはなれないよ。AVとかエロ漫画とか、それらとの差別化なんか永遠にできないよ。先細りだよ。と、云ってるわけです。
 でも、僕なんかはオナニーだって真剣に考えれば充分に奥深いじゃないかとも思ったりはするんですけど。シャワーとか床とか山芋とか、人それぞれ色々創意工夫のやりようはあるでしょうし。
 とはいえ、最近のエロゲーの人気とか見てると、もしかしたら記事を書いた人が危惧してたとおりだったのかもしれないな、と少しは思ったりもしますけど。
 あるいは、良い作品があっても、抜けた泣けたの単純原理でしか受け止められなかったのがよくなかったのか。
 創作の絡みで、ちょっと考えてみたのは、理屈じゃない部分に訴えるというのは、どうしてもマンネリ化したり馴れちゃったりするから、むしろ理屈の部分に訴えかけるのが面白いやりかただったりもするのかなぁ、なんて。
 まぁ、あんまりロジカルすぎるのは個人的には好きじゃありませんが。
 しかし、泣けた作品と本当に心に響く作品って、まったくもってイコールじゃないのはそのとおりですね。
 付け加えるなら、心に響かなくても思い出に残る作品だってありますし。

 そういや、上に貼った記事を書いてる人は、吸血殲鬼ヴェドゴニアについても記事を書いてまして、そっちも読んでみたら、おおっ、と思わされたことがありました。
 なんで、虚淵玄さんの作品での悲劇って、起こった出来事以上に重ったるく感じるのかなぁとずっと頭にひっかかってたんですが、記事から引用するところの、「自分の心の弱さに負けてしまう話」が多いからなんですね。
 状況じゃなくて、心の弱さに起因する悲劇って、責任の所在がはっきりしすぎちゃうからこそやりきれないものを感じるんでしょうな。
 蛍の墓に例えるなら、親戚の家に嫌気がさした兄ちゃんが、妹を意図的にそそのかそて引っ越す理由を自己正当化しちゃうみたいな。
 そういや、富野アニメがやたらと暗く感じるのも、ただ悲劇的なだけじゃなく、人間関係のしがらみとか、そういう個々人のジレンマがどうしようもなくこじれたあげくに悲劇にいきつくからなんだよ。という意見をつい最近目にしてうなずかされたっけ。
 こういうのって、ちょっとのズレが凄まじい拒否反応を起こしかねないから難しいんですよね。
 今度エロゲ原作でアニメ化するホワイトアルバム2なんかは、もろに心の弱さに振り回される話でしょうし。