連載コラム、雑記、思い出話「ぼくと、エロゲ 第19話〜エロゲを語ろう・2008初夏〜」
この思い出話中の時間である2008年頃に勤めていた職場でのことです――。
仕事中の空き時間、僕は同僚の女性との雑談の中で、最近パソコンでプレイするゲーム(オブラートに包んだ表現)にハマっていることをさらりと口にしたんです。
別に何かを期待して云ったわけじゃなく、単なる会話の流れで口をついて出ただけで、あわよくば布教しようだなんて露ほども考えちゃいませんでした。そもそも、相手はゲームとかまったくやらない人でしたし、パソコンも持ってないオタク趣味とは無縁でしたから。
ただ、色々プレイしてるけどストーリーが特別にイイのが多くて面白くてしょうがない、といった感じの言葉は強調した気はします。
そうしたらね、面白いストーリーというキーワードに興味を惹かれたみたいで、こっちが思いもしなかったほど話に食いついてきたんですよ。
そうなると、僕ももストーリーが面白いと胸張って云った手前、どう面白いのかを伝える義務に駆られるわけです。
やったこと自体はとてもシンプルで、エロゲのストーリーをただ云って聞かせただけなんですけどね。まあ、おとぎ話を読み上げる語り部さんみたいなもんでした。
いまでもはっきり覚えています。このとき語って聞かせたのは、僕がエロゲにハマったきっかけである銀色の、それも二章のエピソードでした。
中世の日本が舞台で、地頭として地方に派遣された主人公が神社で巫女やってるヒロインに出会うんだけれど、そのヒロインは間もなく完了する治水工事のクライマックスに人柱にされることが決定済みで〜といういかにも悲恋まっしぐらな切ないストーリーなんですよこれが。
そのときの僕が特別に感情を込めて語ってしまってたのかどうかはちょっと定かじゃないんですが、ひとまず語り終えて同僚のほうを見ると、これがなんとボロボロと泣いていやがるわけですよ。まだ仕事中なのにも関わらず。
これには僕も驚いてしまって、いったいどうしたのかと聞いたんです。
いわく、あんまりにも悲しい話なもんだから思わず涙がこぼれてしまったんだそうな。
いや、いくら感受性が強くて涙もろいからって、よりにもよって俺の語りで泣くこたねえだろとは思いましたけど、このときなんか人に物語を伝えることの楽しさみたいなのを感じたんですね。
物語の力って実はすげえのかもな、って。
もしかしたら、いま僕が夢中にやっている創作の原点の一つはそこにあるのかもしれません。
この出来事をきっかけに、僕はその同僚との雑談の中で度々ゲームのストーリーについて訪ねられるようになりまして、要望に応えるかたちで最近プレイして感動したエロゲのストーリーを語って聞かせるようになっていきました。
相手の反応、感じ方がとても素直で、こちらとしても語り甲斐があって退屈しない相手だったのも大きかったんだと思います。
感動のストーリーには感動を露わにし、笑えるストーリーには笑い、燃えるストーリーには目を輝かせ、小難しい話にはわかりやすく首を傾げる。
最初のほうにも書きましたけど、彼女はまったくオタクではなくて、それどころか特に本を読んだり映画を観たりするタイプでもない。だけど、物語を角度をつけないで真っ直ぐに受け止められる感性の持ち主ではありました。ちゃんと、自分なりに思ったこと感じたことを口にできる人だったんです。
そうそう、僕が語り聞かせた中でもっとも気に入ってくれたのは、ライアーソフトのセブンブリッジでしたね。
19世紀のユーラシア大陸の情勢にオカルトとスチームパンクをプラスした世界観にもですけど、意志を持つゴーレム機関車という設定に興味をしていたのを覚えてます。
あと、彼女自身二児の母だったのもあってか、親子の絆を描いた作品にはめっぽう弱かったみたいで、こらえきれず涙をこぼすところを職場で二度三度目にしました。(苦笑)
そうやって、非オタクな相手に話が通じた一方で、趣味を同じくしてるはずの相手と話が噛み合わないことも少なからずありました。
僕は一時交友関係を広げたくて、ネットを通じて知り合った近隣のエロゲーマーと積極的に会って直に言葉を交わすようにしていたんですけど、これがなかなか思うようにいかなかったんだよねえ……。
感性も価値観も人それぞれなのはわかってるんだけどさ、それでも同じ趣味を持ってる相手なんだから、会話が噛み合って弾むことを期待しちゃうじゃん。
だけど、持ってる情報量の違いだとか、そもそも好きな作品の傾向の違いだとか、そういう表向きの差異だけじゃなく、僕も相手も同じく好きだと云っているはずの作品の話をしていてもなんか噛み合わなかったりするの。話せば話すほど、目の向け方や感じ方の違いみたいのがよりくっきりと表れてくる気がするのね。
たとえば、KEY作品で泣けたシーンの話をしていて、僕はキャラクターの内面に考えを傾けてみたいのに、相手が「泣けた悲しかった」だけで完結しちゃってたら考察も議論も広がる余地がないじゃない。
そんなこともあって僕が思うのは、同じ趣味を持っている相手だと、たしかに親近感は沸くんだけどさ、感性を共有できるかどうかはまた別問題なのかもしれないということ。
なんたって、共通の趣味なんか持ってないに等しい同僚とは話が噛み合うのに、同じエロゲーマー仲間とは話というか気持ちが噛み合わなかったりするんだから。
ひょっとして感じ方の違いってやつは、かなり根っこのほうで違ってるのかもしれない。
実はこれって、僕が車にハマってたころにも同じような体験をしてるんだよね。
サーキットでたまたま出会った名も知らぬ相手とはすごい話が弾むのに、付き合いの古いはずの地元の仲間とは車について同じ目線で語れないことが多かったり。
だからといって、そこで他者に期待することを諦めたくないから、いまの僕は創作という方法で自分を発信しようとしてるのかもしれないな。
連載コラム、雑記、思い出話「ぼくと、エロゲ 第18話〜エロゲは胸にしみる・2008春〜」
その作品と出会ったのは、少しばかり回り道をした先でのことでした。
まず、エロゲの情報を漁っていて、『エロゲ名作選?』というブログ記事をみつけたことがきっかけだったんです。
名作選と銘打っているだけあって、その時点でまだプレイしたことはないものの、名前や評判ぐらいは知っている作品が居並ぶ中、ややマイナーなその作品は、添えられたコメントと相まって、僕の興味をとりわけ惹きました。
『現在の職業がNEETか、過去に失恋した経験のある人がやると実に自殺したくなるゲーム。かく言う自分も軽く死にたくなった。そういう意味では最強の鬱ゲーかもしれない。映画『秒速5センチメートル』とあわせてどうぞ。』
nix in desertis エロゲ名作選?
http://blog.livedoor.jp/dg_law/archives/50932676.html
上に抜粋したコメントは、「極めて秀逸なレビューがここにあるので、クリアした人は読んでみるといいと思う」と続き、別の方のレビューへのリンク先が貼られてました。
それで、そのレビューはというと、
『挫折している人、浪人中の人、失業中の人、失恋中の人、フリーターの人、皆、人それぞれ意味で共感できる人は、この物語は「痛い」はず。「鬱」とも「悲哀」でもなく、精神的に「痛い」と思える作品に仕上がっている。物語が描くのは主人公の成長だが、物語のメインに据えているのは「男女の恋愛観の違い」であり、物語は容赦なく、恋愛におけるエゴを浮き彫りにする。濡れ場で将来に不安を抱くさまは、それなりの修羅場を経験した人は、思い出して胃が痛くなること請け合いになっている。』
いきなりこんな一文からはじまるわけです。(笑)
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=3778&uid=9791
こんな期待が膨らむようなことを書かれてしまったら、もうプレイせずにはいられなかったわけですよ。
それがこの作品、
『はるのあしおと』
この記事を書くにあたって久しぶりにプレイしてみたのですが、僕にとってこの作品は思い出深くて、そして好きな作品なのだな、と改めて思わされました。
件のレビュアーさんは、はるのあしおとについて「痛い」と表現されてましたけど、僕はそこを「しみる」と表現したいです。些細なニュアンスの違いかもしれませんけど。
このしみる物語はね、失恋からはじまるんですよ。
それも酒の肴の笑い話にしてしまえるような当たって砕けた恋ではなく、何も云えずに終わってしまった恋。
立場だとか資格だとか勇気だとか、そういう諸々を処理しきれず一歩を踏み出せないでいるうちに、好きで好きでたまらない相手から突然に告げられた「今度、結婚するんだ」の一言。
ここで主人公は動揺を露わにするでもなく、普段通りに言葉を紡ぎ、わりかし冷静に心情を綴るのですが、その一見冷静なモノローグからひしひしと伝わってくる死にたくなるほどのやりきれなさが、プレイヤーである僕の心と妙にシンクロするんです。
でね、冷静に受け止めた風を装いながらも、とてつもないショックを受けてしまったた主人公は大学に進学以来ずっと暮らしていた東京から、生まれ故郷の田舎町へとゴーホーム。
そして、アパートの一室でひきこもりライフをスタートさせちゃうわけですよ。
とはいえ、隣部屋に住む高校時代の後輩と思いついたようにエロゲ制作をはじめたりはしません。岬ちゃんも訪ねてはきません。
で、ヒキニートな主人公が巡り巡って、高校の臨時教諭を務めることになっちゃう辺りからが本編のスタートとなります。年の離れた女子高生にグサリと刺さるような説教をされたりします。
こうして書くと幾分コミカルに思えてきますけど、すごく一生懸命で真面目な作品なんです。
そして、たまらないほどにセンチメンタル。
失恋の受け止め方が、落ち着いているようですごく重い。そしてむちゃくちゃ引きずる。
なんだかんだでエロゲなだけあって、キャラクターなんかは相応にデフォルメされてはいます。
けれど、彼や彼女らが抱える苦悩や不安は真剣みを帯びているし、たしかな体温を感じる。
これって、いまだからわかるんですけど、決して相反するものじゃないんですね。
そういう生々しさを昼ドラみたいにインパクト優先で雑に扱うのではなく、丁寧に丁寧に描いてさえいけば、ちゃんと胸に響くんです。
「派手な仕掛けは敢えて避け、表現したいものをそのままに」とパッケージ裏に書かれているように、この作品はそういう細やかさがうかがえる作品でした。
だから、時として痛みを覚えるのでしょう。
こういった恋愛を軸に据えて真正面から描いている作品を、僕は、「シリアスな恋愛もの」なんて呼んだりしてますけど、この“はるのあしおと”に関しては、恋愛ものという枠だけに収まらず、成長物語としての側面も強かったからこそ、より印象に残ってるんだと思います。
以前コラムで語った“クロスチャンネル”や“天使のいない12月”そして、いずれ腰を据えて語る日がくるであろう瀬戸口廉也作品のように、僕の人格や思考の深い部分に踏み込んではこない。だけど、気がついたら痛みを伴いながらも、胸の奥にじんわりしみていっている何かがあったりする。
作中、主人公はヒロインに何気ない問いを投げかける。
僕はもう29歳になったが、この問いに対する答えをスッと口に出せそうもない。
子供だったころと違って、適当な職業を口にすればいいというものではないから。
「いったい何になりたいのか」「いったい何になりたかったのか」
このシンプルながらも深い問いが、この作品の根底にはあるように思えてならない。
そこで考え込むような僕だったからこそ、“はるのあしおと”との出会いがかけがえのないものになったのだろう。
あと、「シリアスな恋愛もの」についても少々。
このシリアスな恋愛モノの定義ってのもあくまで感覚的なものではあるんですけど、フィクションらしい派手さはないけど、どこか地に足の着いた感じのする恋愛ものをそこに分類してます。
時系列的には、はるのあしおとよりもあとにプレイした“僕と、僕らの夏”をはじめとした早狩武志さんの作品はまさにそれです。
後々プレイしたCrescendoや「二つめ、三つめがある。だから初恋なんだ」のキャッチコピーが印象的なStarTrainもそういう分類ですね。
こういう恋愛を無闇にドラマチックにせずに、しっかり正面から描いた作品と出会えたことは僕の視野を広げてもくれたと思います。
出会っていなければ、氷室冴子さんの“海がきこえる”や大崎善生さんのセンチメンタルな恋愛小説にも手を出すことはなかったでしょうし。
※「映画『秒速5センチメートル』とあわせてどうぞ」というコメントにピンときた人は、“はるのあしおと”ぜひプレイしてみることをおすすめします。
新海誠さんつながりというわけではないのでしょうが、妙につながるところがあって気に入るでしょう。
雑記、私事、車「いつか、思い出の場所」
いつになく感傷的な気持ちでこの文章を書いている。
僕が、その知らせを目にしたのは、つい一週間前のことだった。
・仙台ハイランド・レースウェイ、9月で営業終了。28年の歴史に幕
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140307-00000003-rcg-moto
この、山形と宮城の県境にある仙台ハイランドというサーキット場は、僕がかつて青春を捧げた思い出深い場所だ。
山の地形をそのまま生かした全長4063mのレーシングコースや国内唯一のドラッグレース専用コースをはじめとして、ダートトライアルコースやカート場をも備えた、いわば東北地方の車好きにとっての聖地みたいな場所。
特に、レーシングコースのアップダウンに富んだコースレイアウトは国内屈指の奥深さを誇る。それでいて、この規模のサーキットとしては信じられないほどリーズナブルな料金で走ることができた。
僕がはじめて仙台ハイランドを訪れたのは2005年のこと。
当時お世話になっていたチューニングショップに誘われて参加したドラッグレース競技会。
それまで車雑紙の記事でしか知らなかった場所へ足を踏み入れるという車人生の一大事は、まだ20歳で田舎の走り屋兄ちゃんでしかなかった僕に、世界が広がっていく実感を与えてくれた。
僕の暮らす街から仙台ハイランドまでは、片道だいたい300キロ、時間にすれば5時間かかるかどうか。
もちろん日帰りで、お金がもったいないから高速道路なんて使わない。行きも帰りもすべて下道だ。
(あ、大曲の花火大会と走行会のスケジュールがぶつかったときだけは、渋滞よけに高速を使ったっけ)
はじめて参加したドラッグレースは、記録自体は16秒1かそこらがベストで全然パッとしなかったけど、それでも楽しかった。
あのときは、あの場所の雰囲気に浸っているだけで、もうほとんど満足していたんだと思う。
どこか遠い世界の出来事としか思っていなかった車雑紙の中の世界が、僕のすぐ目の前に広がっている。
ツンと鼻の奥を刺激する焼けたゴムの匂い。獣の咆吼じみたエキゾーストノート。ゾッとするほどの速さで駆けていくチューニングカー。
あの場所は、日常を抜け出して足を踏み入れた非日常の空間だった。
とはいえ、ドラッグレースは僕の専門ではない。
僕が本格的に仙台ハイランドの面白さを知ったのは、レーシングコースを走るようになってからだ。
ドラッグレース競技会の半年ぐらいあとに開かれた走行会。
本当は地元の仲間達と行くはずだったのに、彼らは二の足を踏んでしまったようで、僕一人だけでの参加になってしまった。
(そういえば、何度か誘ったが、結局彼らは一度も仙台ハイランドまで行くことはなかった。片道300キロという物理的距離は、やはり遠く思えてしまうらしい)
僕が最初にレーシングコースを走ったときは、タイム計測なしのフリー走行クラスだった。
あのときの感動を忘れることはできない。
サーキット走行自体ははじめてではなかったし、すでに車の楽しさは知っているつもりでいた。だけど、それはどちらかといえば競い合うことの楽しみで、ただ車を走らせているだけでも楽しいだなんて経験は、それまで味わったことがなかった。
※参考動画
http://www.youtube.com/watch?v=W2L9Dco8fcI
高低差の大きいコースをてっぺんまで登っていくときの高揚感、登り切ったコースを駆け下りていくときのスリリングさ。
20分の走行枠を三本。それだけで、僕はあのコースの虜になってしまった。地元のミニサーキットなんか物足りなくって、もう満足できないようになってしまっていた。
そして、2006年以降、僕はどんどん仙台ハイランドにのめり込んでいくようになる。
はじめてタイム計測ありで走ってみたときなどは、それなりに腕は立つと信じ込んでいた自分のあまり遅さに愕然としたりもした。
オーバーステア状態のFF車があそこまでコントロールしづらいというのも、速度域の低いサーキットばかりを走っていてはわからなかったろう。
ムーヴやらエスティマやらシーマやら、およそスポーティーさとは縁のないように思える車でサーキットくる人もたくさんいるという事実も、僕の見識を大いに拡げてくれた
あそこに通ったおかげで、本当に色々な学ばせてもらった気がする。
ブレーキパッドが真っ白に焦げて使いものにならなくなってしまったり、
向かう途中の山道で角材を踏んづけてロアアームがガタガタになったり、カラスに昼ご飯を盗まれたり、散々なこともあったけど、それでもいまにしてみれば良い思い出だ。
一期一会という言葉を実感するような出会いもたくさんあった。
「ディーラーで一目惚れしちゃってさ。それでせっかくだし、定年後の楽しみにと思ってサーキットに来てみたんだよね」と、ラリーアート仕様の真っ赤なランエボⅥを自慢してくれたおじさん。
「俺も昔秋田に住んでてさ」と、気さくに話しかけてくれたインテRの兄ちゃん。
ボルトオンターボのマーチで長野から自走してきたというすごいアクティブなおっちゃん。
人だけじゃない、車との出会いだって強烈な印象を伴うものばかりだった。
パイプフレームのR32。
凄まじいカミナリみたいな排気音を発していたSA22C。
その筋では全国的に有名なリヤラジエターのシルエイティ。
他にもたくさん、どれも、忘れようにも忘れられないほどの存在感を放っていた。
結局、僕は当面の目標だったタイムをクリアしたことにより一つ区切りがついて、2009年を境に仙台ハイランドから足が遠のいていくようになった。
それでも変わらず車が好きではあったし、いずれ余裕が出来たらまた仙台ハイランドにいきたいという気持ちは、車よりも創作に夢中になってるいまでも胸の奥にしまっていた。
そうやって新たな夢を追っている中で舞い込んできたのが、冒頭で述べた仙台ハイランド閉鎖の知らせである。
折からの経営不振に加えて震災がとどめとなって、オーナーがサーキットの所有権を手放し、代わりにメガソーラーが建設されるのだという。
それはつまり、仙台ハイランドという場所が、この世界から完全に消え去るということを意味する。
アクセル全開で駆け抜けたホームストレートも、正確なステアリングさばきを要求されたシケインも、ノーブレーキでダイナミックに駆け上がった上りコーナーも、アクセルワークに気を使わされたスプーンコーナーも、すべてがじきにさら地になってしまうのだ。
時間は流れ、景色は変わっていく。
いつか20歳だった僕は、29歳の僕になり。車でなら死んでもいいと思ってた僕は、車では死ねない僕になった。
だけど、そうやって僕が変わっていっても、僕がかつて青春を捧げた場所は変わらずにそこにあって、ふと思い立ったときに、また足を運べば僕を歓迎してくれる。
そう、思っていた。
だけど、そうはいかなった。
今回の知らせを受けて、一つ決めたことがある。
今年、僕はもう一度、仙台ハイランドに走りにいく。
これがきっと最後になるだろう。だから、別れを告げにいくようなものだ。
車のコンディションもだけど、何より僕自身の気持ちが、走ることに夢中だったころに比べれば、ベストとはほど遠いのはわかっている。
それでもいく。絶対にいかなくちゃならない。
五月か、六月か、どちらにしろ暑くなる前のほうが都合が良いだろう。
そんなことを考えていると、走るのが楽しみでしょうがない気持ちと、無事に帰ってこれるか不安な気持ちとが沸き上がってくる。
すごく懐かしい感じがした。
ああ、そうだった。
あのころ、シーンと周囲が静まり返った深夜二時に、300キロ先の仙台を目指して自宅を発つ前はいつもこんなだったなぁ。
創作論、雑記「人物描写について調べてみた」
仕事が休みだったこともあり、ふと思い立って、小説における人物の容姿の描写を何冊かの商業作品を参考に調べてみたので、それらを抜粋してみます。
あんまり無差別に選んでもまとまりにかけるので、“現代が舞台”“はじめて出会う女の子”と軽く条件を設けてます。
つまり、ヒロインとの初対面シーンですね。
あ、加えるなら、どの子ももれなく作中にて美人、可愛いと評価を得ているキャラクターたちです。
大半はラノベですけど、一般エンタメとエロ小説もほんの少しだけ混ざってますね。
で、実際に調べてみて実感しましたけど、キャラのイメージを表現するために顔かたち体つきまで具体的かつこと細かに描写してる作品ってわりと少ないんですよ。
今回ランダムに選らんでみた作品は、あっさり目のが多かった。
のっけから、髪は〜〜色で、瞳が〜〜で、鼻筋が〜〜、さらには服が〜〜なんて詳細な外見描写を、ずらっといっぺんに書き綴ったりはまずしていない。
僕個人としても、容姿の描写はスマートなほうが読みやすかったりしますし、想像力に委ねる部分が多い方がある意味では楽だったりもします。。
とはいえ、顔や体のパーツがどういった具合なのかについて、まったく描写されていないというわけではなく、直接的にイメージを伝えるというよりは、読者の想像力を喚起する方向で使われていることが目立ちます。
この辺を参考にしていただくとわかりやすいです。
目や髪や肌なんかはピンポイントで具体的な描写を入れてるんですけど、その他までは細やかに描写せず、最終的なキャラクター像は読者のイメージに委ねている。
他には、服装やファッションセンスで、そのキャラクターのイメージを伝えているパターンも多かったです。
この辺は、中身の人間よりも、その装いをより強調してますね。
当然ながら、教科書通りに外見をきちっと描写している作品も数多くあります。それもまたひとつの正解ですから。
上二つはどちらとも有名なライトノベルですが、このシーンのキャラ描写限定で甲乙をつけるなら、後者のほうがテンポよく思えます。
というのも、一人称でなおかつ文の合間に挟むには、ちょっとハルヒのほうは説明口調っぽさが気になりました。
キャラの外見を描写するためだけに一定量の文章を割かないパターンもあります。
この辺は、他と同じような初対面シーンなんですけど、キャラクターの外見に関する描写はかなり小出しにしていました。
中には、キャラクターのイメージを伝えることにかなりの文章量を割いている作品もありましたね。
今回は現代ものからの抜粋でしたが、これがファンタジーやSFならまた違った傾向になるのかもしれません。
こういうのって、創作の参考に、という意図もありますけど、いち読者としても、このような些細な部分に注目してみるのも、その作家さんの癖や特徴に気づけたりして面白いものですよ。
連載コラム、雑記、思い出話「ぼくと、エロゲ 第17話〜得難き出会い・2008冬〜」
『自分の読みたい物語を、己で書くってのは、すごく苦しいけど、本当に辛くて投げ出したくなるけど……やっぱり楽しいよ。
皆さんもぜひ、チャレンジしてみてください。
感動した、とか、納得いかん、とか、物語を読むたびに感じる様々な気持ちに突き動かされて、才能が無いにもかかわらず僕は物書きを目指しました。
独りで新たな世界を築くのは心底しんどくて、俺は何故、好き好んでこんな苦行を続けているんだ、と自問自答する瞬間も多々あります。
でも、自分の読みたいストーリーを誰かに書いてくれ、というのは、やっぱり甘えだよね。
(中略)
短編でも長編でも、ネットでも携帯でも、詩でも絵でも小説でも、プロでもアマでも、上手でも下手でもいいんです。いつか、お互い何かを創る者として、皆様と語れる日を楽しみにしています。』
……この言葉と出会っていなければ、おそらく僕は、創作の道に足を踏み出しはしなかったろう。
その作品を知ったきっかけは、些細だった。
僕にとって毎度の情報源、2chのエロゲ板。
ミリタリー、それも戦闘機を題材にした美少女ゲームがあるとの情報を得たのは、まだ2007年のことだ。
僕はミリタリー関連がもともと好きで、ちょうどエロゲも好きになったばかりで、二つの趣味を兼ねることができるその作品が気になるのは、とても自然ななりゆきだった。
『群青の空を越えて−GLAS AUSZEICHNUNG−』
エロゲでミリタリーもの。
組み合わせだけ一見すればキワモノに思えるが、オタク界隈の歴史を顧みれば美少女とミリタリーはむしろ相性が良いことがわかるだろう。
だから、僕はこの群青の空を越えてという作品に、そこまで特別の期待を寄せていたわけではなかった。
胸が熱くなるドンパチと、その合間の女の子とのイチャイチャを楽しめればいいかな、ぐらいにしか思っていなかった。
……だが、まさか、あれほど得難い出会いになるとは。
強く心に残る作品とは、ただ出来が良くて面白ければいいというものではない。触れたことによって自分の世界が広がったことを実感できる作品こそ、忘れられない思い出になって心に残り続ける。
僕にとってはそうだった。
群青の空を越えて……いや、早狩武志さんの作品との出会いは、僕の世界を広げてくれた。僕がどんな物語が好きなのかを気づかせてくれた。
云ってしまえば、ミリタリーものというジャンルに限定しても、群青の空を越えてよりエンタメ的な面白さで秀でた作品はたくさんある。
だが、それでも、僕にとってこの作品は別格なのだ。
あらすじとして見た場合、この作品はそこまで特徴的というわけではない。
関東と関西という対立構図による日本国内を舞台にした内戦という設定はユニークではあるが、類似の作品がまったくないわけでもないし、状況が二転三転するような目まぐるしい展開が用意されているわけではない。
戦争をシビアに扱った作品によくあるように、登場人物たちは時代の荒波に翻弄され流されてゆくばかりだ。
しかし、荒波に翻弄される登場人物の一人一人にピントを合わせたとき、群青の空を越えては、この作品にしかない輝きを放ちはじめる。
『世界は、君が生まれた瞬間に生じて、君が死んだ時に終わる』
群青の空を越えての作中で綴られる一節だ。
戦争という大きな流れの中では、人ひとりが認識できる世界はちっぽけかもしれない。
それでも、その人にとってはそれが世界のすべてだ。
僕がこの作品から、これまで触れてきたミリタリーものにはなかった新鮮味を感じたのは、ひたすら登場人物たちの目を通して物語を見つめること、個人を描くことを徹底していたからだろう。
いわゆるミクロの視点に終始していたのだ。
もともとエロゲにはミクロ型のシナリオが多い。
世界の運命を背負うよりも、世界のどこか片隅で繰り広げられるなんでもないラブストーリーのほうが主流だ。
早狩武志さんの手がけるシナリオも、また例に漏れずそういったこぢんまりとしたスケールに収まることが多い。
だけど、そこにあえて戦争という強烈にマクロを意識させられる設定を用意したのが群青の空を越えての魅力だった。
ありふれた登場人物たちを、ありふれてない状況に置く。
ありふれたという形容詞が正しくしっくりくるようなシナリオを持ち味にする早狩さんだからこそ、ただの仮想戦記とは一味違う作品を作れたのだと思う。
そうして、群青の空を越えてをきっかけに早狩武志さんを知った僕は、他の作品にも手を出していった。
早狩武志というシナリオライターの存在をはっきり意識するようになったのは、群青の少しあとに、『僕と、僕らの夏』をプレイしてからだろう。
空想の中にしか存在しない夏ではなく、記憶の中にあるノスタルジックな夏の情景を思い出さずにはいられないこの作品は、これほどまでにありふれたストーリーはないんじゃないかと思うぐらいにありふれていた。
ここで云う“ありふれた”とは、美少女ゲームのストーリーとしてテンプレートじみているという意味合いではなく、この世の中で起こっているだろう出来事の中でなんら特別ではない、という意味合いでの“ありふれた”である。
少年期を過ごした村が、ダムに工事によっていよいよ水の中に沈むと知り、数年ぶりに帰郷した主人公が、再会した幼なじみとの恋に悩む。
僕と、僕らの夏は、云ってしまえばただこれだけの話だ。奇跡とも冒険とも、また悲劇とも縁がない。
しかし、等身大の登場人物たちの目を通して物語をまっすぐに見つめたとき、ありふれたはずの物語が、あまりにありふれているからこそ、他の作品にはない存在感を生む。
ありふれた等身大の登場人物たちが、ありふれた恋に思い悩む姿。そんなものを見せつけられて、僕は感情移入せずにはいられなかった。
哲学的な作品によくある、人間性の深みに切り込むことで強い共感を呼び起こすタイプとはまったく違う、たしかに表層的ではあるんだけど、もっとも実生活と結びついた部分での共感を覚えずにはいられなかったのだ。
はっきり云ってしまえば、早狩氏の作品は、高尚さとはあまり縁がない。
登場人物たちがたまに小難しいことを考えてみることはあっても、アプローチの仕方がとにかく地に足が着いているのだ。
(っていうか、この人の描くキャラって妙に生活感があって、デフォルメされた可愛さとは真逆をいってるんだよね。立ち上がるのもおっくうなぐらいベコベコにへこんで落ち込んでるんだけど、尿意には勝てないのでトイレにはやっぱりいきます。みたいなかっこ悪さが親近感を生むわけでさ)
と、ここからいきなり口調を崩しますけど、この早狩武志さんって、語って凄さが伝わるタイプのライターさんじゃないんですよね。
むしろ、凄いか凄くないかで云ってたら、凄くない物語ばかり書いてる。だからこその良さがある。そういうタイプだと思ってます。
だから、繰り返しになっちゃうけど、登場人物たちが抱える悩みなんて、他のスケールがおっきい作品に比べたらちっぽけもちっぽけなの。
恋だとか面子だとか嫉妬だとか将来だとか。
まぁ、ときには国家の運命だとか、命についてシリアスに考えてみたりもするんだけど、それにしたって、人ひとりの想像力が及ぶ範疇に留まることがほとんどです。
だから、だからこそいいんですよ。
考え方が飛躍してないから、よくわかるんです。
登場人物たちを気に入るにしろ気に入らないにしろ、どう気に入って、どう気に入らなかったのかがはっきりしやすいんです。
フィクションなんだけど、物語の中の彼らがすごく身近に感じるわけだ。
あと、ここまで、“登場人物たち”と複数形にしてるのは、早狩武志さんが複数の視点からひとつの出来事を見つめるスタイルで書くことが多いからなんです。つまり群像劇ですね。
ありふれた恋愛話でも、いや、ありふれた恋愛話だからこそ、見えてくるのも、考えていることが、人によって全然違ってきます。
望むものが手に入った人の陰には、手に入らなかった人だっているかもしれないというのをしっかり描いてくれるところも、僕はずっと気に入ってます。
そういう作品の楽しみかたとして、プレイヤーたる自分が、いったいどの登場人物にもっとも共感するのか考えてみるというのもあるんですよね。
すると、僕なんかは、ハッピーエンドを迎える主人公よりも、その陰で打ちひしがれる脇役に感情移入してしまったりもするんですけど。(笑)
ここまで早狩武志作品について書いてみましたけど、やっぱり全然上手には語れてませんね。
結局は、諸々をひっくるめて、「僕の感性にしっくりきた」で片付いちゃう話ではあります。
早狩武志作品の登場人物たちって面倒くさい性格が多いけど、僕もまた性格が面倒くさいほうだし。
なんと云いますか、この人の作品って大のお気に入りではあるんだけど、熱っぽく語るのは似合わないとも思ってるんです。
ものすごいカタルシスを味わえるわけじゃなくて、読み終えたあとに、ふっと心地の良い脱力感を味わったりとか、肩の力が抜ける感じの作品じゃないかなぁ、と。
けど、群青やナルキッソス3のメサイアは、ちょっと重ったるい脱力感だしなぁ。
何にしろ、力が抜けるような感じというのがキーなんだろうか。それと、ほろ苦さと喪失感、お祭りの夜が終わって、靄の中を朝日が昇ってくる感じですかね。
ああ、そういえば、早狩さんのシナリオって、何かが終わるんだけど、また新たな何かがはじまる、という風に再びスタート地点に立つところで終わることが多いんだよな。
最後に、『潮風の消える海に』のエンディング曲『セイリング』から、なんかすごく早狩武志作品らしいな、と思った一節を抜粋して締めくくりましょう。
『例えば誰かと出会うこと 誰かを愛すること それだけで 少しはこの人生も悪くないって思えることを知った』
“素晴らしい”ではなく、“悪くない”なのがらしいです。
連載コラム、雑記、思い出話「ぼくと、エロゲ 第16話〜よくわかんないもの・2008冬〜
今でも覚えている。
2008年の一月に何をしていたのかというと、僕はひたすら“最果てのイマ”をプレイしていた。
田中ロミオ作品でもっとも面白いかった作品は? と訊かれたら、僕はこの作品の名前を挙げるだろう。
ここでいう面白さとは、シンプルに娯楽性という意味合いでの面白さだ。
心を揺さぶられた等の広い意味での面白さでなら、他のロミオ作品や山田作品も甲乙つけがたいのだが、先が気になる面白さという意味ではこの作品が一番だった。
で、ここからが今回の本題なんですが、この最果てのイマという作品は、数あるエロゲの中でもジャンル分けしづらい作品のひとつだと思います。
世間的にはSFということになってますけど、ジャンル分けにおけるSFは適用範囲がどうも広すぎて、とりあえずしっくりくるだけに留まっている気がするんです。
だって、最果てのイマもSFならロケットの夏もSFですし、マブラヴだってSFに含まれるんですよ。
一口SFといったって、大きく違うことが多いじゃないですか。
それでも、最果てのイマはSFにジャンル分けできるだけまだわかりやすい。
同じ時期にプレイした“水月”や“何処へいくの、あの日”なんかは、いったいどういったジャンルに分けるべきなのか未だもって結論が出ません。
エロゲの名作良作って、こういう一言でジャンル分けしづらい作品がわりと多いんですよ。
Forestとか
Carnivalとか、
沙耶の唄や俺たちに翼はないも、
既存のジャンルに振り分けてもいまいちしっくりきません。
それだけ個性的だということなんでしょうね。
自分で創作をやるようになった今だからこそ、ああいったジャンル分けの難しい作品を作り上げたクリエイターがいかに独創的で特別だったのかがわかります。
云い方は悪いですけど、既存のジャンルに乗っかった作品って、お手本になる作品が簡単にみつかるんですよ。
つまり設計図を描きやすい。
だけど、水月みたいな作品を作ろうと思ったら、参考になりそうな作品なんて水月以外にありますかね。
いや、ないんじゃないかなぁ。
あんなのは、もはやトノイケというジャンルですよ。
オンリーワンというのは簡単に真似できないからこそオンリーワンなんだろうな、とつくづく思うわけです。
頭から尻尾の先まで替えがきかない。
今にして思うと、本当に良い経験ができたんだなと思うわけです。
あの当時、特に強いこだわりを持つでもなく、ただ単にエロゲに熱中していただけなのに、ああいうオリジナリティの強い作品に触れられたことで、僕の視野は自然と広がりましたから。
雑記、回顧「2013年を振り返ってみて後編・読んで印象深かったラノベ、映画、アニメ他」
2013年・印象に残った小説、ラノベ
・なつき☆フルスイング! ―ケツバット女、笑う夏希。 /樹戸英斗
あんまり期待をしていなかったのに、思いがけず当たりを引いたときって、すごく印象に残りますよね。
この作品がまさにそうでした。
夢、挫折、再起っていう流れとしてはありふれたテーマなんですけど、だからこそ身につまされることの多いネタでもあって普遍的に共感しやすいんですよ。
それでいて、上ばっか見てるんじゃなくて足下にもちゃんと目を向けているからアスリートじゃなくても感じ入るものがある。
作中でヒロインが口にするアマチュアイズムの肯定は、プロ作家を目指している今だからこそ、好きなものとの向き合い方を考えてみる良いきっかけでした。
「野球っつったら甲子園ぐらいしか思い浮かばないのかおまえは! おまえの野球が好きな気持ちはその程度なのかよ。年間百試合以上こなしてるタレントや漫画家がいるって知らないの? 素人がだよ。プロ並みの試合数をこなしてるんだよ。筋金入りの野球バカどもは、甲子園に出られなくたってプロに入れなくたって、河原にある球場とも呼べないようなグラウンドで図体のでかい大人のくせして子供みたいに白いボールを追っかけてるんだ。貴重な休日を潰して、休養どころか逆に疲労がたまるってのにバットを手放さないんだ。それほど野球が好きなんだよ」
作品自体に関してはもはや説明不要ですね。21世紀以降のラノベを代表する一作なのに、実はこれまで読んだことがなかったんです。
で、読んでみて感じたのが、ヒロインでもあり実質的な主役でもある涼宮ハルヒって、切り取られた場面だけを見ちゃうとすごくエキセントリックなキャラなんだけど、その実どこにでもいそうな普通の女の子なんですよね。
本人もそのことをいやというほど自覚していて、だからあえてエキセントリックに振る舞っている。普通はいやだから、特別でいたいから。
作中で、ハルヒが自分のちっぽけさを自覚したエピソードとして、家族で野球場に出かけて人の多さに驚いた話を早口でまくし立てるんですが、これには僕も共感するところがありました。
こういう非日常だとか特別な何かだとかに憧れる気持ちって、創作物を好むような人ならみんなが大なり小なり抱えてると思うんですよ。
それはハルヒだけじゃなく主人公のキョンくんも同じなんですけど、彼はもうそこを通りすぎようとしていて諦めかけてもいる。彼の気怠い態度はそこからきているんでしょう。
そういう、どこか行き場所のない想いを感じ取ったせいか、この作品の明るさが、まるで空元気のように思えてしかたがありませんでした。
ああ、もしかしたら、ハルヒが明るく振る舞いつつも、いつもカリカリしてるのもそういうことなのかもしれませんね。
創作の参考にしようとの思いもあって、ラブコメも結構読んでるんですよ。
定番の俺妹やら、少し前のヒット作であるところのかのこんとか乃木坂春香とか。
で、色々読んでみたわりには、印象に残る作品はあまり多くなかったんですけど、その中で不思議と好感触だったのがこの作品なんです。
ストーリーが特別面白かったわけではないし、キャラクターもそこまで個性的だったわけではありません。
だけど、嫌味な部分が全然なくて、すんなり作品に入り込めたんですよね。
良い意味で自己主張が弱くて、妙な押しつけがましさを感じなかったんです。
今や人目を引いてナンボなところがあるラノベ業界だからこそ、新鮮味のない素材で真っ正直にラブコメをやっている素朴さが好印象につながったんだと思います。
言葉通りの意味でライトな作品として楽しめました。
ラブが頭に付かないコメディです。
旬なネタや何らかの文脈の上に成り立つネタに頼ってないからこそ、時代を経ても面白さが色あせていないのでしょう。
読み応えには欠けますけど、邦画のコメディみたいな軽妙な面白さがありました。
2013年・印象に残った映画
・ エルアラメイン 炎の戦線
戦争映画その1
イタリア軍を主役に据えた珍しい作品。
北アフリカ戦線が舞台、つまりは砂漠地帯です。
戦争映画なんだけど、妙に綺麗なところばかりが印象に残る作品でした。
暗闇の中、花火のように輝く照明弾。
戦友たちと見上げる満天の星空。
血がたぎるようなシーンはほとんどないのに、気がついたら映像に見入ってました。
・Uボート
戦争映画その2
潜水艦は狭い暗い、そして怖い。
戦争映画というよりは、閉鎖空間を舞台にしたパニック映画みたいな展開ばかりが続く作品です。
第二次大戦中の潜水艦って、守りに回るとこんなに弱いんだなと勉強になります。
逃げて隠れて、たまに魚雷撃って。
そんな爽快感はあまりない、むしろ息苦しさばかりが伝わってくる作品なのに、これが妙にかっこよかったりもする。
そのかっこよさを演出するのにBGMが一役も二役も買っていて、これがまた素晴らしいんですわ。
戦争映画その3
もはや戦争映画の枠を超えた大傑作。
反戦映画なんて温いものではなく、嫌戦映画といっても差し支えないぐらい苛烈に戦争を批判している。
戦争って怖いね、悲しいね、やっちゃいけないね。で思考停止せずに、その先にある本質を見抜く眼差しは鷹のように鋭い。
戦争は国家政策の延長であるというクラウゼヴィッツの言葉を引用した上での、
「小隊の未来は現在も過去も中隊なくして有り得ない」
「心得ていますが、人それぞれに自分らしい生き方がありまして」
という民主主義の基本を思い起こさせるやりとりは実に深い。
あと、主人公のシュタイナー伍長のかっこよさは異常。
・生きる
・七人の侍
親父が急に黒沢映画に目覚めたみたいでツタヤから借りてきたので、この機会に観てみた。
……ええっ、この映画いったい何年前のよ!?
プロットの優秀さが感嘆に値するレベル。こりゃハリウッドも真似するわ。
特に7人の侍はエンタメ作品の手本みたいなもんなので、創作やる人は一度観ておいたほうがいいですよ。
7人いる侍のうち誰に好感を抱くかで、その人が理想とするキャラクターのタイプがよくわかります。
生きるのほうは、まず終戦からたった7年しか立っていない時期に公開された映画であることに驚く。
人が生きる意味というテーマがいかに普遍的なのかがわかります。
ハッピーバースデーの歌を効果的に使った演出は、意図があからさまだけど上手すぎてびっくりする。いつかオマージュしてやろう。
NSR250乗りの後輩宅で視聴。
これまで観た映画の中で三本の指に入るであろうカッコイイ作品。
アンソニー・ホプキンス演じる主人公が実に粋でもう最高。真似して、『GOD OF SPEED』って壁に描きたくなる。
「(レース中の)5分は一生に勝る。一生より充実した5分間だ」
とか、夢中になってサーキット走ってたころを思い出してジーンときたよ。
まさに男のロマン。
やっぱ枯れてちゃ人生つまんねえよな。
2013年・印象に残ったアニメ
・ガッチャマンクラウズ
普段あまりアニメを観ない僕ですが、一目置いているブロガーさんがやけに押してたので観てみました。
これは観て良かった。
エンタメとしての面白さ以上に、語らずにはいられなくなるタイプの面白さがある作品でしたよ。クラウズ論壇とか、観る前は斜に構えて舐めていたくせにハマってんでやんの。
ヒーローって何なんだろう? とか考えてみたことのある人は観るべし。
「ヒーローってなんすかね〜♪ なんなんすかね〜♪」って主人公もルンルン歌ってるわけだし、この作品を語る上で外せないテーマです。
しかし、これと絡めてキーチを紹介してくれた人には感謝してもしたりない。
・風立ちぬ
公開されてすぐに映画館まで観にいってきました。
飛行機とか戦争とか恋愛とかよりも、天才を描いた作品だなと思いましたね。
主人公の空を見上げる眼差しのまっすぐさが強く印象に残ります。それこそ怖いぐらいに。
あれって、やっぱり空に取り憑かれちゃってるんだろうなぁ。
・宝島
ずいぶんと昔の出崎アニメです。
方々から高評価っぷりは何年も前から知ってたんですが、なかなか手が出なくて2013年になってようやく視聴。
うっわ、これも魅力の塊だ。
名作劇場みたいな子供向けアニメのくせして、主人公と、ジョン・シルバーっていう敵役のおっさんとの関係性が濃密すぎるったらない。
相手がどんなイイヤツだろうと、立場が違えば全力で叩きのめさなければならないときがある。というのを、手心一切無しに描ききっている。
だから妙にハラハラするんですよね。
スポーツでひいきのチーム同士が闘っているのを見守る気持ちに近い。
魅力的なキャラなら、なんだかんだで味方に引き込んどけばいいじゃん。なんていう甘さを徹底して排除したストイックな作品でした。
2013年・印象に残ったエロゲ
・メイプルカラーズ
2003年の作品なんですが、その当時としてもちょっとレトロなマップ移動型ADVです。
退学の危機を乗り切るために、学園祭でクラスの演劇を成功させろ! というあまり捻りのないストーリーで、ミニゲームを交えながら仲間を集めていくのが作品の基本線になってます。
ストーリーやらキャラクターやらゲーム性やら、一つ一つを見ていけばそこまで魅力に富んでいるわけではありません。
ですが、いざプレイしてみると、これがなかなか面白い。
エンタメとしてのバランスが良く、思った以上に時間を奪われてしまいましたとさ。