そこに物語があれば

秋田在住、作家志望兼駆け出しエロゲシナリオライターの雑記

コラム「積み重なっていくもの」

先日、俺は26歳の誕生日を迎えたわけで、これでまたひとつ歳を重ねてしまった
人間五十年という言葉に倣うならば半分を過ぎたことになる
おそらく、大体この辺りから歳を重ねることを疎ましく思う人が増え始めるのではないだろうか
かくいう俺自身も「年齢なんてあくまで目安」とよく口にはするものの、歳をとることへの焦りを完全に拭い去っているとは言い難い
そんな不安に駆られた時に俺が思い出すのは夏の庭という小説の一場面
これは孤独な老人と彼に興味を持った少年達の心の交流を描いた作品なのだが、その作中で老人と同郷の老婆が思い出話に花を咲かせているのを見て少年は思う
こんなにも思い出話がどんどん出てくるなんて二人の中には一体どれだけ沢山の思い出がつまっているのだろう
自分の中にはここまで語れるほど沢山の思い出はまだない
歳をとるということが思い出を増やすための行為なのだとしたら、それは楽しいことなのかもしれないと。
ここでいう思い出とは、ただ単に記憶の蓄積だけを指すのではなく、経験とか知識とかそういうもの全てをひっくるめた自分の中の財産のことを指しているのだと俺は考える
歳をとればとるほどそういったものが積み重なったいくのならば、それはなんと素晴らしいことなのだろう
例えば、ほんの数年前の俺は、C†Cやこんにゃく、かにしのといった略語を見てもピンとこなかったし、ロミオや丸戸という名前を聞いても誰のことだかさっぱりわからなった
だが、今の俺なら全てわかる
他にも「我、生きずして死すこと無し」という詩が何であるかやスープを飲む前に高菜を食べてはいけないことだってここ数年で知った
明日の俺は今日の俺よりも多くのことを知っているだろう
そして来年の俺は今年の俺よりももっと沢山のことを知っている筈だ
そう考えると歳をとることを疎む理由など何もない
積み重なるものが確かに存在するのならば歳をとることはむしろ喜ばしいことですらある
そして俺が歳を重ねていった先に、いつか土に返る日がきて、あとかたもなく消えてしまったとしても思い出だけは世界の片隅で漂い続けて欲しい
そんな想いから、このコラムを始めとした諸々の雑文をブログも含めた数ヶ所に分けて保存し公開している
俺の思い出が電子の海を漂い続けて、ずっと未来の知らない誰かの心にそっと忍びこんだりするかもしれない
そんなことを考えながら、今日もまた俺は思い出を積み重ねるのだ