そこに物語があれば

秋田在住、作家志望兼駆け出しエロゲシナリオライターの雑記

コラム「Are You Happy?」

 今年もまた、あの季節がやってくる。
 通りを彩るイルミネーション。
 鳴り響くジングルベル。
 街頭に溢れる恋人たちの幸せそうな笑顔。笑顔。笑顔。
 そう、クリスマスが、今年も街にやってくる。
 

 というわけで、気がつけばいつの間にやらもう12月。皆様いかがお過ごしでしょう。
 クリスマスの予定はお決まりになられましたか?
 僕はまぁ、宗派の関係で、クリスマスイヴにはPCモニターの前にケーキを捧げる宗教儀式を執り行わなければならないのですが、世の中には聖なる夜を独り身ですごさなければならないカワイソウなヒトたちもおられるようで。
 そういう人たちのなかには、心根がすっかりひねくれて「女とかマジイラネーしww」と頑なになってしまってる人も少なくないこともよく知られてますね。
さて、ここからおちおちと本題に入って行くとしましょう。
 先に述べたような心根がひねくれてしまった人がいたとします。この人に、「彼女や恋人って意外と悪くないかもな……」と思わせる。あるいは、そこまで具体的な感情を抱かせずとも、そういった方面の心理的動揺をあたえるのにもっとも適した方法はなんだと思いますか?
 僕はね、幸せそうなカップルの姿をただただ見せつけるのが1番だと思うんです。
 本当にただただ見せつけるだけ。それも作為的にではなく、あくまでも日常の風景としてごくごく自然に。
 言葉でもってして恋愛の素晴らしさを語る必要なんかまったくありません。目すらも合わせなくていい。ただひたすらに愛し合う恋人たちの姿を見せてやればいいんです。
 これは正直たまったもんじゃありません。言葉で恋愛の素晴らしさを説かれたのなら、恋愛のネガティブな面をピックアップして論破してやればいい。あるいは、こっちを見ながらわざとらしく眼前でイチャイチャしてきたなら、悪態の一つでもついてやればいい。でも、こちらのことなんか眼中にも入らないぐらいの幸せそうな光景を見せられたらどうしようもないじゃないですか。
「どうせ女は年収と容姿と学歴にしか興味がないだろうし、男は男でセクロスにしか興味がないにきまってらぁ」なんて言ったところで無駄ですよ。だって、相手はこっちなんか見てないんですから伝わりようがありません。それに、これが目の前のカップルにも当てはまるかなんてわかりませんし。悪態なんかついたところで、自分自身を納得させるための悲しい自慰行為にしかならないんです。
 押しつけがましくないというのは、ある意味でとっても残酷なことでしてね、受け取る側としてはどうしようもないんです。
 暖簾に腕押し、糠に釘。そもそも押しつけてきていないのだから反論のしようがないですし、顔を真っ赤にしてネガティブな意見を口走っても虚しいだけ。だからといって、無視もできない。意図的に無視するってのは、意識してるってことの裏返しですから。
 何かされたわけではないから腹が立つとまではいかないんだけど、どうしようもなく鼻につく、そしていけ好かない。押しつけがましくない幸せな光景を見せつけられた時に、こう言った感情を抱く人ってのは意外と少なくはないと思いますね。
 そしてクリスマスってのは、この鼻につくいけ好かない幸せが街に溢れかえるイベントなんですよ。
 恋人たちは自分たちの幸せに浸ってるわけですから、僕みたいなのになんか目を向けはしません。
 あ、僕みたいなのなんて言っちゃいましたね。い、いえ、違うんです、僕はクリスマスには大事な宗教行事が(ry。      
 なんてことはまあ置いといて、こういう自分なんか関係無しに目の前で繰り広げられる幸せな光景ってのは、案外自分が思ってる以上に心の深いところをえぐるんです。
 これは非現実の出来事であってもそうですね。ほら、”耳をすませば”を見てると死にたくなると言う人が結構いるじゃないですか。あれは、まさにそうですよ。
 あの作品って、説教臭さや押しつけがましさがほとんどなくて、ただただスクリーンの中で繰り広げられる主人公たちの淡い幸せなラブストーリーを第三者として眺めないといけないじゃないですか。
 これって要は、人の幸せをただただ眺めるってことですよね。あ、ここからちょっと論点が変わっていくので、ご容赦を。
 それでですね、どうしてこの”耳をすませば”は数ある恋愛ハッピ−エンド系作品の中でも際だってこういうことを言われるんだろうな、というのがこれまでずっと頭の中に引っかかってたんです。
 まあ、知名度と放映頻度のせい、と言われればそれまでなんですけど、僕は、世界観が現実的だからっていうのが1番の要因だと思うんですよ。
 物語における現実的な世界観というのは、どうしてもリアルを想起せずにはいられないわけでして、そういうのは良くも悪くも受け手の心の奥に響きやすいんです。
 これはアニメや漫画等のメディアのほうが際立ちやすいと考えてまして、だからこそ多少なりとも非現実的な要素を入れてやることで、現実的な世界観でも上手く現実から離れていくように仕向け、受け手に安心を与える必要があるわけです。
 だけど、耳をすませばは、その非現実的要素が薄いんですよね。まぁ、所詮は創作物ですから、ある種のファンタジーには違いないんですけど、そこまで現実から逸脱してるわけではないのは見た人ならおわかりいただけるでしょう。
 そういう作品の場合何が問題かというと、面白いと思った人、面白くないと思った人の他に、拒否反応を起こす人ってのが現れるんですよね。
「現実を想起させる作品なんかみたくないやい」って人たちですね。
 よく、この手の作品で秒速5センチメートルなんかの名前も挙げられますけど、あれに拒否反応を起こす人は意外とシンプルなんです。あれはただ、非ハッピーエンドに納得がいかないだけの人が大半ですから。
 ここで取り挙げるのは、なんでもない幸せな物語に拒否反応を起こしちゃう人たちのことです。
 以前、ハルヒがブームだったころ、あるブロガーさんがちょっとした考察をしておられまして、おおまかに内容をまとめますと、
「あの作品って、SFとかメタとか色々あるけど、大半の支持してる人たちの根底にあるのはどう考えても、『俺もこんな青春が送りたかった!』って想いだよね」
 といった感じなんですが、これね、すごい的を射てるなと思ったんですよ。
 これ面白いので、厳密には転載の転載みたいな記事なんですが、せっかくなので貼っておきましょう。
  
http://d.hatena.ne.jp/nyankosensee/20080720

 そりゃあオタクの皆さんはなんだかんだ言いますけど、本心では幸せな世界に憧れてるに決まってます。でも、その中でもひねくれてしまった人たちは、それをなかなか表に出しづらいじゃないですか。出したところで、どうにかなるわけでもないですし。
 だから、どうするかというと、本心では等身大の幸せに憧れつつも、表向きは非日常、非現実の部分のほうに飛びつくんですね。ハルヒでいうところの、SFとかメタとかそういう部分ですね。これ、一種の自己防衛みたいなもんだと考えてます。むしろ、あきらかに非現実的な要素があることで、絵空事としての安心を覚えるんです。ハルヒに続いてブームを巻き起こした”らきすた”もまた、メタ的な要素が盛りだくさんでした。
 そして、ハルヒらきすたに次いでブームを巻き起こした作品といえば、言うまでもなく皆さんおわかりでしょうが、”けいおん!”です。(今ちょうど劇場版が絶賛公開中ですね)
 あれ、本当いろんな意味でけれん味たっぷりな作品だと思うんですよ。
「けれん味どころか、無味無臭な作品じゃねぇか!」と、おっしゃる方もいるでしょうが、いえいえむしろそれがきついんです。
 あの作品が無味無臭に思われやすいのは、添加物がほとんど入ってない、つまりはあきらかな非現実的ファンタジー要素が入ってないからなんですよね。
 その結果どうなってるのかというと、あれを見たオタクは、今まで真正面から向き合うことは避けていた等身大の幸せに向き合うことを余儀なくされちゃうわけです。
 制作スタッフの人も言ってたんですが、あれのアニメ版というのは、とりわけそういう部分をむき出しにして先鋭化させてるんですよね。
 そうなると、それを受け入れられるか受け入れられないかの二択しかなくなってしまうわけで。
 まぁ、受け入れられる人と受け入れられない人が出てくること自体はどんな作品でも同じなんですが、けいおん! の場合、先に挙げた耳をすませばと同じで、拒否反応を示す人が現れている感じがするんですよ。
 「おもしろーい」っていう人でも「おもしろくなーい」っていう人でもなく、「おもしろくねえんだよクソが!」とか「ツマンネ! ツマンネ! ツマンネ!」って声高に叫んだり、叫ばないまでも近い感情を抱いてる人に遭遇したことはありませんか。
 昨今の萌えブームとセットでそういう声が上がってる面も確かにあります。ですが、客観的に分析すると、作品としてのけいおんは、萌えブームの中でもかなり異質な作品であることがわかります。作品としてのディティールは、今時の作品にしてはかなり地味ですし。
 じゃあ、どこがそんなに嫌悪されるのかというと、制作スタッフが意図的に先鋭化させた、何でもない等身大の幸せこそが嫌悪の対象なんです。
 頑なになってしまったオタクにとって、何でもない等身大の幸せなんてものは、潜在的に求めたり、紆余曲折の末にたどり着くものであって、それをハナから求めるのは許せないことなんですよね。
 だから、けいおんを叩こうとはするんですけど、あの作品のすごいところは、そもそも過度のファンタジー要素がない上に恋愛要素は皆無だし、ギャグでもないから滑る滑らないの指摘もできない。おまけに成長要素も薄いこともあって、作品としてのあら探しが本当に難しいんです。設定の矛盾や甘さをつくような、ありがちな手法がとことん通用しない。(”つまらない”という指摘はあの手の作品には一種の褒め言葉であり野暮)
 仕方ないから、キャラの人格や世界観を否定しようとするんですけど、これがまた凄い落とし穴なんですよ。
 ためしに、けいおんのキャラや世界観を否定してみてください。大体は、あんな優しい世界はあり得ない的な論調になると思いますが、そこに僕は、こんな言葉を投げかけます。




「おまえって、そういう優しくない世界に住んでる可哀想なヤツなのなww」 




 どうです。むかつきませんか? でも、ああいう優しい世界を即座に否定できちゃうってことは、少なくとも優しさ一辺倒ではすまされない世界に住んでるってことですよね。
 これが、ハルヒならそう問題はないんです。長門とかみくるとか、ああいうあきらかな非現実的要素に、「ねーよww」っていってやればそれで済みますから。
 だけど、けいおんだとそれが上手く機能しない。悲劇をご都合主義で乗り越えた先にあるタイプの優しい世界ならば、「ねーよww」って鼻で笑い飛ばすことも簡単なんですが、それすらもないものだから、安易に否定しちゃうと、自分の住んでる世界がひどく惨めに思えてしまう。
 これって、クリスマスに街角で幸せそうに寄り添うカップルを眺めるのと似てると思いませんか?
 自分はただ目の前で幸せな光景が繰り広げられるのを見ていることしかできない。だからといって、それに悪態をつくとひどく惨めな気分になる。
 しかも、けいおんはあくまでも創作物ですけど、クリスマスのカップルたちは紛れもないリアルですから、そりゃあもう、ね。
 

 憎しみはない。
 恨みもない。
 だけど、どうしても鼻につく。いけ好かなくてしょうがない。
 嗚呼、哀れ悲しきルサンチマン。胸に去来するは、何に対する悔しさか。
 願わくば、誰も妬まず生きてください。
 

 あと、たまに思うんですが、同じ創作物のなかでも、優しい世界は絶対に認めないくせに、ウシジマくんみたいな救われない世界には手放しでリアルとか言っちゃう人はなんなんですか?
 ペシミストですか? そんなに世の中って救われませんか? 優しい世界ってのはあり得ちゃだめなんですか? そういう世界はガンダーラみたいもんなんですか? どうしたら行けるのだろう。何処かにあるユートピア


 などとまぁ、論点が微妙にぶれまくった雑文もこの辺でおしまいにしましょう。
 最後にちょっと言わせてもらうなら、幸せそうなカップルや眩しいばかりな青春の光景に対して、素直に「うらやましい」と言えるあなたは、頑張ればそっち側に行けるかもよ。
「うらやましい」と心の底では思いつつも認められないキミも、かなり頑張ればそっち側に行けるかもしれない。
 だけど、「うらやましい」という想いを素で抱けなかったり、ひねくれすぎちゃって抱けなくなってしまったアンタは要注意だ。高確率で、世間一般的な幸福からは縁遠い人生を歩むだろう。

 ん? そういう僕はどれにあてはまるのかって?
 バ、バカ、あんたになんて教えるわけないじゃない。
 べ、別に、カップルとかそういうのなんかちっともうらやましくないんだからねっ。