そこに物語があれば

秋田在住、作家志望兼駆け出しエロゲシナリオライターの雑記

コラム、物語論、自説「after」

 一から物語を考えていると、必ずぶち当たる問題がある。
 それは”オリジナリティ”の問題だ。
 21世紀を迎えて早十年と少々……。誰も今まで思いもつかなかったようなネタなんてものはそうそうあるはずもなく、あったとしても既存のネタを何かしらの形で盛り込んでしまえば、それはやはり純オリジナルとは言い難くなってしまうこの不条理。
 ならばやむなしと、開き直って模倣を良しとする者。
 はたまた、過去使われたネタをあえて用いつつ、自分なりの解釈、解答を加えて独自色に塗り替えようとする者。
 あるいは、既存のネタを悪魔合体させて化学反応を起こそうとする者。
 他にも、自分の頭で考えた完全オリジナルのつもりが、どうしてか人様のネタにまるかぶりしてたり……。なんてこともあるかもしれませんね。(むか〜しどこかで見かけたネタをふいに思い出しただけなのに、自分が思いついたネタだと思い込んでしまうことも結構あります)
 あ、かくいう僕も、人の深層心理はどこかで繋がっていて、無意識のうちに考えを共有しているのかもしれない。だからネタ被りが生じるのかもしれない。というオカルト思想を今思いつきました。でも、多分これもオリジナルではなくどこかの受け売りに違いありません……。
 ネタ元がわかる人がいたら、どうか僕に教えてください。(ミームの話とは多分違うはず)


 さて、そんなこんなでここからが本題。
 だいたいのネタがやりつくされちゃった現代ではあるんですが、それでも切り口次第ではまだやり尽くされてないネタも多いと思うんですよ。
 そういうわけで、今回僕は、まだやり尽くされてないと思われるネタを一つ提案してみます。
 それは今回のコラムのタイトルにもなっている「after」
 「〜〜の後」なんて意味を表したりする英単語ですね。
 つまり何を言いたいのかというと、「物語が終わってからの物語」ってのは、まだやり尽くされていないよね、って話なんですよ。
 これまで数多の物語が生まれ、完結してきました。
 そして、それらの積み重ねの上に立って、今の創作者たちは新たな物語を紡ぐことを求められています。
 そんな今だからこそ、「その先の物語」を描くというのはどうでしょうか。
 物語ってのは、未完でない限りは一応の完結を見るわけですけど、厳密には終わりはないと考えます。
「末永く幸せに暮らしましたとさ」
 この、末永く幸せな暮らしのなかにどれだけの物語があることか!
「諦めたら、そこで試合終了だよ」とは言うが、試合が終わったからといって、人生は終わりはしない。むしろ、終わってはくれない。
 諦めたその先。終わった先にあるのはなんなのか?
 きっと始まりだ。
 そこにはきっと新しい始まりがある。
 そして物語は紡がれる。
 喜劇にも悲劇にも、必ずその先はある。
 
 終わりのその先。終わってしまった後。
 ファンディスクや後日談といったおまけ的なものではなく、ハナからその先、その後に焦点を当てた物語。
 まったく手つかずなネタというわけではないが、これこそがまだやり尽くされていないネタだと僕は考える。
  実際、今僕が抱えている10から20のプロットのうち二つは、終わりから始まるネタだ。どうにかこれを上手く調理したいと思っているのだが……。

 まあ、とは言うものの、面白くなるかどうかってのは、また別問題なんだけどね。にはは。