そこに物語があれば

秋田在住、作家志望兼駆け出しエロゲシナリオライターの雑記

コラム「崇めよ、讃えよ。そして広めよ」

 オタク業界において、何かに特別執心する人を「信者」と呼ぶことがある。これは今さら説明するまでもないぐらい昨今当たり前に使われている言葉だ。
 幾分蔑称的なニュアンスも含まれはするが、この呼ばれ方を甘んじて受け入れられるほどでなければ真の意味で信者は名乗れないだろう。
 ここ近年、〜〜信者と呼ばれる人達は、何か新しい流行が一つ生まれるごとに増え続ける傾向がある。
 今回、僕はそこに踏み込んでみたい。
 昨日放送していたテレビ番組のなかで、性能でVHSに勝っていたはずのベータマックスが敗北したことの要因の一つに、宗教に馴染みが薄い日本人は「布教」が下手だったということが挙げられていた。
 「布教」
 今回の話の焦点である。
 自分が好きなものを崇める人は多い。讃える人も多い。だが、それを広めようとする人は意外と少ない。
 特に最近はその傾向が顕著だ。
 信者の義務の一つである布教に関心がない者が増えている気がしてならない。
 
 それでも信者かぁ!
 諸君は信者だろう。
 諸君は信者だろう!
 諸君は信者だろう!!
 
 慎ましい。分をわきまえている、と言えばそれまでだ。そもそも程度の差こそあれ、布教という言葉や、それに伴う活動に良い印象を抱かない日本人は多い。
 そういえば先日、日本の営業マンは、買う気のある人間を良い気分にさせるのは得意だが、買う気のない人間を買う気にさせるのが凄く苦手だ、という話を聞いた。
 これも言い換えれば、すでに信者となった者をもてなすのは得意だが、それに関心がない者を誘い込むのは苦手だということではないか。
 一つ問いますが、これを読んでいるみなさんは、自分がとびきり好きな何かを人に布教した経験はありますか?
 あるならいいです。あなたは立派な信者だ。
 だけど最近とみに、自分の好きなもの、崇めるものを人に勧めようとしない信者が増えている感がある。
 いや、そもそもそういった人を信者に区分して良いのか不明ではあるが。
 少し話は変わるが、近年特に、ジャンル間の文化交流の断絶が著しくなってきた気はしないだろうか。
 インターネットの発達によって情報のボーダレス化は進んだはずなのに、むしろ最近は文化がコミニュティごとに閉じていってやしないか。
 私見だが、これは布教活動が下火になったことで、異文化を見て聞いて体験する機会がぐっと減ったからだと僕は考える。
 また、崇められる側の神性も薄れていっている気がする。もっとも重要なのは御神体でも教義でもなく、信仰を共にする仲間。
 神へのリスペクトは糸くずほどしかなく、真に崇めるのは集いの場。
 だから来る者は拒まないけど、わざわざ信仰を異とする者を呼び込もうとはしない。だって実は神様はそんなに好きでもないし尊くもないからね!
 とはいえそこに何も問題はない。所詮は信ずる者さえも救わないような神かもしれないし。
 比喩を正さぬまま続けるが、神の信徒のようで、その実そうではない人間をなんと呼べばよいのだろう。
 やっぱり彼らもまた信者なのだろうか。
 
 なんだか収まりの悪い文章だけど、つまり言いたいことは、
「信者を名乗るんなら、胸を張って人にも勧めるべきなんじゃないの? それやらない人を信者と呼んじゃっていいの?」
 これだけなんですよね。
 
 そういえばどうしてかエロゲ好きな人って、
「面白いけど人を選ぶからオススメはしない」
「初心者にはオススメしない」
 みたいな言葉をよく持ち出す気がします。
 でも、そんなの大抵は無茶苦茶オススメしたいんだけど、素直にはオススメできないツンデレ感情の表れなんですがww
 ええ、わかりますとも。かく言う僕がそうですし。

「(はあ……。どうしてわたしっていつも素直に言えないんだろ。本当はアイツにプレイしてほしいのに。ほんと……いくじなし……。また今日も言えなかったなあ)」
(CVツンデレっぽい誰か。個人的にはエレナさん)