そこに物語があれば

秋田在住、作家志望兼駆け出しエロゲシナリオライターの雑記

コラム、雑記、JS転生中「人を舐めちゃいけません。でも持ち上げすぎるのもいけません?」

 えっと、えっと、JSのわたしは今回もこの調子でつらつらーと書いていこうと思いますっ。
 今日はですねぇ、最近とある場所で目にした書き込みにうなづかされたってお話を少しだけ。

>この映画にしても「母子家庭」「周りと違う子供」「新しい転地での生活」
これらが大変なことの連続ってのは分かってるんだけど、どこかその「大変」さに酔っている部分が製作者側からも臭ってくるんだよな。

「生活」するってのは当然のことで、その生活による苦悩ってのは、生活やってる本人たちは感じてなくて、生活様式の所作に苦悩からくる工夫が出てくるものなんだけど、作っている側がそんなことしたこともないし
それらが特別なものだとも思ってるからいらないズームアップをしたり、容だけ抽出したような描き方しか出来ない。


 これ、とあるまだ新しめな映画に対する感想なんですっ。
 わたしはその作品を見ていないのでそれ自体についてはとやかく云えないんですが、上に抜粋したような感想が当てはまる作品って意外とあるなぁなんて思っちゃったり。

 あのあのっ、わたしなんかがこんなえらそうなことを云っちゃっていいのかわかりませんけど、人間ってすごく強い生き物じゃないですか。
 それでいてすごく弱い生き物でもあると思うんですっ。

 たとえば、親しい人や大切な人が亡くなっちゃったりとか、大きな災害に出くわしたりだとか、お父さんが破産しちゃったりだとか、一生直らない障害を背負っちゃったとか、そういう大変なことに出くわしちゃってペッコペコのケチョンケチョンにされても、それでもまた再び前を向いて歩き出せるのも人間ならば、
 友達とケンカしちゃったとか、好きな人に好きっていえないまま転校して離ればなれになっちゃったとか、大切な宝物が壊れちゃったとか、人より見た目が悪いだとか、そういうよその人から見たらとっても小っぽけなことを、長いこと引きずったりしちゃうのも人間だと思うんです。
 つまりですねっ、人って複雑じゃないですか、難しいじゃないですか、簡単じゃないじゃないですか。
 矛盾だっていっぱい抱えてますし、裏表があって当たり前です。


 でも、こと物語で、そんなのをそのまま赤裸々に描いちゃったらわかりにくいんです。
 人自体がわかりにくいのですから当然ですよね。
 だから、プロでもアマでも創作とかをやってる人ならわかると思いますが、大変なこと素晴らしいことを、よりクローズアップしてズームアップして抽出してあげたりするんです。
 そうすると、とってもわかりやすくなりますから。
とある人気漫画なんて、よく主人公が感極まって泣いたりなんかしてますよね。あれはそうすることで感動を強調してるんです。
 それで、わたしは別に、そういうのがダメって云ってるんじゃないんです。
 なんだかんだでお話はお話ですし、リアリティ指向がすべて正しいってわけじゃありませんもの。

 けど、ちょっとでもリアリティ指向の物語を描こうとしたら気をつけないといけないよ、とも思ってます。
 たとえがあってるか知りませんが、はじめの一歩やオールラウンダー廻のキャラクターがバキやドラゴンボールの技を使ったらダメじゃないですか。
 それは大嘘ですし、欺瞞ですし、ファンタジーになっちゃうわけで。
 ましてや、人の心の動きをわかりやすく単純化なんてしちゃだめですよ。
 それって、面白くはあっても薄っぺらいし偽物のなかの偽物ですよ。旨味成分だけ抽出した化学調味料ですよ。
 味の素は入れすぎると体に毒なんですっ。みんな気をつけてっ!
   
『俺がシド・ヴィシャスって大っ嫌いなの知ってるだろ。何でだろうなって考えて、最近わかったんだ。
あれはね、シドが嫌いなんじゃなくて、まつわる物語が気に入らないんだよ。それを賛美する連中も嫌いだな。
悲しくなるように自分で勝手に作って、自分で勝手に陶酔してんだ。そんなの、くそっくらえだよな。
連続性だとか、継続だとか、因果関係だとか、死ぬほどどうでもいいってことだよ。瞬間が全てなんだ。
本人はそんなに悪い人じゃないと思うけど、くだらないメロドラマはごめんだ。人生を馬鹿にしてやがる。
何でもかんでも物語仕立てにしやがって。そんなにみんな、ストーリーが好きなのか。俺は全然否定するね。
ドラマなんか、くだらないよ。なあ村上、大事なのはその瞬間に全てをかけることなんだ。パンクロックはスパークだ。そう思わないか?』

 なんでもかんでも物語にして複線貼って盛り上げて意味をもたせりゃいいのさ! って気持ちに、わたしははどうしてもなれないのですっ。
 
 わたしの知っている困ったお兄さんが好きだっていってた、らくえんっていうエッチなゲームのなかで、ヒロインのひとりが自分の弟の葬式にいってきた話をはじめるメチャクチャおもーい場面があるらしいんですよ。
 だけど、ヒロインにとってのとてつもなく大きな出来事は作品の大筋にはまったく絡みませんし、主人公の心に何か大きな影響を与えるわけでもない。
 ただ事実としてのみそういう出来事があるだけ。
 ホントのリアリティというのはこういうのだよね。とお兄さんが云ってました。わたしはエッチなゲームとかしりませんもんっ。(ドキドキ)
 物語として盛り上げてナンボなのはたしかだとしても、あんまし頭ばっかで考えて意図的に感動を煽るのには本心からはノれないんですよね。

 あざとさっていうのは、あざといからあざとさなのでしょうけど、いちプロの作り手志望としては、そういうのに反骨心は抱いていたいなぁ、なんて思っちゃったり。



 以下、さらに適当につらつら

・科学的根拠なんてない思いつきの出任せなんでしょうけど、本当のコミュ障とは何か? っていうコメントが面白かったです。

「本当のコミュ障とは、問題なく人と仲良くでき飲み会などにもよく行くがそれを楽しいと思えない人間」

 ……うわぁ、これってなんだか色々考えさせられちゃいますね。
 だってわたしもわりと……、ううん、なんでもありませんっ。


・ストーリーのつじつまをあわせ、間を置きたがる悪いのか良いのかよくわからないクセ。

 創作についての実践レベルの話なんですが、たとえば、
『偶然、学校の廊下でぶつかった新入生が、生き別れの妹に預けたふたつ一組のアクセサリーの片方を持っていた』
 というイベントがあったとします。
 そこで、「おまえまさか、俺の妹か!?」ってその場で訊いちゃうのが、てっとりばやくて駆け足な展開なら、
「そんなはずは……」と疑念だけ抱かせて、そのアクセサリーがどれくらい世に出回っているのかをきっちり調べた上で、後日改めて「おまえまさか……」ってやらないと、なんだか気持ち悪いのがわたしのテンポなんですよね。
 上に書いたことにも少しつながるのですが、思考や行動が不自然にシンプルすぎるキャラを好まないとでもいうか。
 だからどうしても無駄にエピソードが増え話のボリュームががが