連載コラム、雑記、思い出話「ぼくと、エロゲ 第11話〜いわゆる世界と自身とをつなぐアレ・2007秋〜」
“共感とは、他者と喜怒哀楽の感情を共有することを指す。
もしくはその感情のこと。
たとえば知り合いがつらい表情をしているとき、相手が「つらい思いをしているのだ」 ということがわかるだけでなく、自分もつらい感情を持つのがこれである。”
上記したのは、Wikipediaからそのまま拝借してきた共感という言葉の意味についてです。
創作をやっていると、共感できるキャラクター、主人公を生みだせ、と散々云われるのですが、はたして共感できるキャラクター、主人公とはどういう条件を満たした結果生じるものなのでしょう。
・受けて側と思考が近い。
・主観的に見て親しみやすい性格を有している。
・受け手と思想、価値観が大きくズレしていない。
この辺を押さえておけば、少なくともとっつきづらい主人公にはならないでしょう。
いわゆる無難というやつです。
ならば、この逆をいけば必然的にとっつきづらい主人公が生まれるという方程式が成り立つ?
さぁて、それはどうでしょう。
とっつきづらいと共感できないはイコールなのかと云うと、そうとは限りません。僕はそう考えます。
はい、ここからエロゲの話。
『Cross†Channel』
前回も名前を挙げた、文句なしに名作エロゲに数えられる一作ですね。ちょうど今年で発売から10年ですよ。
よく物語の主人公への共感は、自己投影とセットで語られたりしますけど、このクロスチャンネルほど主人公に自己投影しづらい作品はそうそうないと思います。
プレイしたことのある方ならよくおわかりいただけるはず。
・受けて側と思考がかけ離れていて。
・主観的に見て親しみやすい性格を有しておらず。
・受け手と思想、価値観が大きくズレている。
ざっと羅列してみるとわかりますが、およそとっつきやすいとは云えないキャラクター造形をしています。
にもかかわらずね、この主人公はどうしようもなく共感せざるを得ないキャラクターでもあったりするんですよ。
この主人公とは本質的な欲求が違う方向を向いている僕でさえそうなのですから、高評価をつけた人なんかは特に深い共感を覚えたことでしょう。
『――ここに全員いる。
みんなが、ここにいる。
単に、放送部員がいるという意味だけじゃあない。
幾多の嘘とだましの上に成立した、仲良しこよしの残骸だ。
そんなものが、この世界に生きる俺たちの寿命を、心の崩壊までのリミットを、少しだけ延ばしてくれる。』
物語の主人公なんてのは、結局は他人なわけですよ。
ましてや自分とかけ離れた思想、思考、性格の持ち主だったりすると、よけいに間が遠くなるばかりで、例に挙げたクロスチャンネルの主人公・黒須太一にいたっては、およそ共感しづらい主人公の条件を満たしきっている。
極端な云い方をすると、あの主人公は狂人以外の何者でもない。
そのうえリアリティがあるかといえばまったくもって現実離れしている。
でもね、それでも感じいるものはあるんです。
というか、あったんです。
クロスチャンネルをプレイしたあの日から早6年。改めて考えてみてわかったことがあります。
きっと、そうさせているのは切実さなんでしょう。
『人はただ、いてくれるだけでいい。
場所も、性質も、性別も、問わない。
いてほしいんだ。
人は人にいてほしい。
より近くに、感じたい。
手を伸ばした先に、誰かがいるという安心。
それを得たい。
だから人は呼びかける。
電話で。言葉で。手紙で。態度で。
……無線で。
どこかで誰かが聞いてくれますように。
そう願って。
みみ先輩は正しかった。
逃避だけど正しかった。
俺は人なんだ。
ああ。
信じられない。
深い意識にかき乱され、無邪気に人を壊してしまう俺だ。
強調を衝動に阻害されるのだから、当然だ。
けれど俺は、人だったんだ。
生きられる。
その充足感だけで、俺は生きていける。』
大真面目に何かに向き合ってる姿って、苦悩の中身や是非を別にしても胸を打つじゃないですか。
こういう深い共感は、無難を積み重ねただけの主人公には生じえないと考えます。
だって、実際そうだったんですもの。
いずれ話に挙げるであろう瀬戸口廉也作品の主人公もそうですけど、自分とは似ても似つかないのに激しく共感を覚えた経験は少なくありません。
理屈で考えるとおかしなことなんですけど、案外これって誰にでもあることなんじゃないですかね。