連載コラム、雑記、思い出話「ぼくと、エロゲ 第12話〜天使はいない・2007末〜」
前回、僕はクロスチャンネルをダシに共感や自己投影の話をさせていただきました。
見習いの身分ながら、自分でも筆をとるようになった今だからこそわかるのですが、エロゲに限らずビジュアルノベルやADVって、主人公の目を通して物語を追体験させられているようなもんなんです。
基本的に主人公の一人称で物語が進み、その都度思想や思考、いわゆる内面をダイレクトに読まされるわけで、不思議なんですけど、同じく一人称で綴られた小説と比べても、没入度が高くなりやすいよう傾向があるように思えます。
これって、この手のゲームの主人公に人格らしい人格がなかったころよりも、しっかりとした人格が与えられてからのほうが強まっているんじゃないでしょうか。
恋愛やら性癖やら、あまり表立って口にしづらい題材を大なり小なり扱っているのも大きいと思います。
つまり、僕らは主人公の内面に踏み込んでいっているわけですよ。
ましてや、ストーリーの核心に近いドラマチックな場面に限らず、ただ飯を食っているシーンやら、本当にたわいない雑談に興じるシーンやら、色々な場面で主人公の内面を覗かされます。
こうも主人公の内面を覗かされるのなんて、他に純文学ぐらいかもしれません。
それでですね、内面に踏み込んでいった先で、「ああ、こいつは俺そっくりだ」という強い共感を物語のキャラクターに対して抱いたことはありませんか?
僕はあります。
この作品の主人公の思考が、10代のころの僕とあまりに似通っててびっくりしました。
思い出したんですけど、これたしか、後輩がたまたま持っていたのを借りてプレイしたんですよ。
Leaf(通称・葉っぱ)というエロゲ業界を代表するメーカーの中にあって、結構マイナーで、なおかつ異色な作品です。
似通ってたとはいいましたけど、無論、すべてが自分と似ているなんてことはありませんよ。
そもそも、僕がエロゲ主人公ばりに女っけのある日々と縁があるわけないじゃないですか。
フヒヒ……。
ただ、八割自分とは違っていても、二割自分と似通っていれば、もはや他人とは思えない。
そういうとびきり濃密な部分というのがあるんです。
それは現実の生活においてもそうかもしれませんね。
(僕もこの作品の主人公も妹との仲が極めて良くなかったり。たはは)
いわゆる厭世感、云い換えると、生きることへのめんどくささというのを多感な時期の僕は絶えず抱えてまして。
今も抜け切れてはいなんですが、とりあえず、これはもう持病みたいなもんだとわりきることはできてます。
だから、この作品の主人公が度々「めんどくさいめんどくさい」と繰り返すのにとてもシンパシーを覚える。生きてることすらめんどくさく思えてしまう感覚にもね。
こんなにシンパシーを覚えたのは、15歳の冬に“深夜の馬鹿力”という伊集院光さんがやってたラジオ番組に出会ったとき以来ですよ。
たぶん、この作品は一生忘れられないと思います。
素晴らしいとか面白いとか、そういうのとはまったく別の次元で、ここまで主人公に共感した作品はないでしょうから。
記憶って、結局は薄れていきますし、都合の良いように改変されていってしまうことだってあります。
だから、いつでも思い出せるようで、本当の過去の自分と向き合うことって案外無理なんですよ。
けれど僕は、10代のころの自分とよく似た価値観を持った物語の主人公に触れることで、少しだけ本当の過去の自分と向き合うことができました。
まぁ、結局は少しだけではあるんですけどね。
よく、ハードボイルド小説の主人公が「過去を振り返ることなんて無意味だ」みたいなことをかっこつけて口にしたりしますけど、今自分が立っている場所をたしかめるためには、それは決して無意味ではないんです。
この作品の主人公は、選択肢によっては厭世観極まっていくところまでいってしまうわけですけど、僕は結局そこまではいかずに10代を通りすぎて、30手前の今も平凡な日々を生きている。
じゃあ、僕をそうさせたのはなんだったのか。
それは、我執の入り交じった意地だったり、ささやかな希望だったり、未来への期待だったり、今でもはっきりとは見えてきませんが、やっぱり自分と向き合ってみないとわかりようがないことばかりです。
この、“天使のいない12月”をプレイしたころには、すでにどっぷりエロゲにはまっていたわけですが、よもやエロゲがきっかけで自らと向き合わされる機会が訪れるとまでは夢にも思っていませんでした。
面白いか面白くないかだけが判断基準だったのが、大きく変わりはじめたのは間違いなくこのころでしょう。