そこに物語があれば

秋田在住、作家志望兼駆け出しエロゲシナリオライターの雑記

旅日記、車、私事「さらば、思い出の仙台ハイランド」

 9月7日、夜――。
 僕は思うように寝付くことができず、 自室のベッドの上で目を閉じたままぼんやりと考えごとをしていた。
 午後九時に仕事を終え帰宅し、一〇時には食事を済ませ、そのまますぐ床についた。
 明日のことを考えて少しでも眠っておきたいのに、意識はなかなかフェードアウトしてくれない。
 これはたぶん気持ちが昂ぶっているのだろうね。明日の遠足が楽しみすぎて眠れない子供と同じさ。
 だけど、わくわくばかりでもないんだな。僕は同時に緊張してもいて、明日がやってこなければいいのにとの思いが胸の片隅に腰を下ろしてたりもする。学芸会を明日に控えた子供の心情とでも喩えようか。
 東北でも屈指のテクニカルなレイアウトを誇るあのサーキットを走るのが楽しみで、何日も前から念入りに準備を整えていたのにも関わらず、直前になるとどうしてか行くのがたまらなくおっくうになってくる。
 車が壊れないか心配で、無事帰ってこれるか心配で、そんなに心配ならそもそも行かなければいいのに、それが車好きとしての義務であるかのようにあの場所へ向かわずにはいられない。
 そうだ、そうだった。この、あのころを思い出すとても懐かしい感覚。仙台ハイランドを走る前の日は、毎度こうしてベッドの上で、正反対の気持ちを胸に抱えていたっけな。
 やがて、日付の変わった午前三時半にセットしておいた携帯のアラームが鳴り、僕は浅い眠りから目を覚ます。
 充分に眠れてはいない。が、体調は悪くない。久しぶりの車いじりの反動ともいうべき筋肉痛もすっかりとれた。意識もまずまずはっきりしている。
 僕は起き上がって身支度を調えると、玄関先にあらかじめ用意しておいたヘルメット、ツナギ、ジャッキその他の荷物を車の後ろに積み込んで、旅支度を完了させた。
 時刻は朝の四時をちょっとすぎたところ、辺りはまだ真っ暗でシーンと静まりかえっていて、低いアイドリング音がやけに響く感じがする。暖機運転が済んだらいよいよ出発だ。
 僕の自宅がある秋田県北秋田市から宮城県の仙台までは片道およそ三〇〇キロメートル、これから県境を二つまたがなきゃならない。高速は料金が高いし遠回りだから使わないんだ。いつも下道さ。すんなり行けば五時間とかからずにたどり着くだろうが、おそらく山形に入った辺りで朝の通勤ラッシュに出くわすだろう。
 まあ、いい。きっとそれだって良い思い出になる。楽しんでいこう。
 バケットシートに収まり、手のひらにすっかり馴染んだモモ製のステアリングを握った僕は、ウィンカーを左に点灯させ、自宅前の細い市道から国道一〇五号線へ車を出した。
 進路は南、これが最後となるだろう仙台ハイランドへのドライブのはじまりだった。
 さて、一人きりのロングドライブで気晴らしに付き合ってくれるのは、カーオーディオから流れてくる音楽だ。
 といっても、今回僕はミュージックではなくラジオドラマを旅の友にチョイスしたのだけれど。USBメモリーにたっぷり九時間分詰め込んでおいた。
 まずは諸星大二郎作「夢見る機械」をBGMに、旧阿仁町から西木村にかけての曲がりくねった峠道を走り抜ける。
 機械によって人間の望むがまま都合の良い夢を見させられるというネタはマトリックスっぽいな、などと思いながら、ヒーターのレバーに手を伸ばす。道路沿いの温度計によると、山間部の外気温は一三度まで下がっていた。車内とはいえ、半袖半ズボンじゃ肌寒いわけだ。日中との寒暖差のためか濃い霧も立ちこめている。
 時間帯が時間帯なので、前にも後ろにも他の車の姿はない。もちろん対向車ともまったくすれ違わない。民家も遠く、外灯もポツポツと存在しないほとんど完璧に近いぐらい真っ暗闇に覆われた峠道。山の中に響くのは四気筒ターボの低い排気音だけだ。
 と、ヒーターの操作レバーを触ってて思い出したんだけど、そういや、数日前にラジエターを新品に交換した際に、クーラントエア抜きをきちんとやったつもりで、ヒーターをONにするのを忘れてたぁ!
 クーラントってのはエンジンの冷却水のことでね。こいつを抜いて新しいのに入れ替えたときは、配管に入り込んだエアをポコポコ抜いてあげる必要があるんだな。ほら、空気って熱によって膨張するから、ほっとくと水温上昇時に配管を詰まらせて水が流れるのを邪魔しちゃうのよ。
 で、この作業の際はヒーターの配管にもエアが入り込んでたりするから、ヒーターを全開にする必要があるんだけど、素人のいたらなさですっかり失念してたってわけさ。
 ……まあ、いいや、今さら気にしたって遅いし、たぶんなんとなかなるべえ。
 そんなこんなで峠道を抜け、道路脇に民家の明かりがポツポツ見えてきた辺りで、次のラジオドラマがはじまった。
 高畑京一郎作「ダブルキャスト
 これは昔聴いた覚えがある。たしか高校生のころだったろう。
 作者は云わずとしれた電撃文庫のベテランだ。もっとも、僕自身それを知ったのは、最近になって小説を積極的に読むようになってからなんだけど。(HHOの続刊待ってます)
 何者かの凶手にかかり不慮の死を遂げた川崎涼介。未練を残した彼の魂は、たまたま彼の死の間際に立ち会った少年の体に宿ってしまう。
 少年の名は浦和涼介。同じ名を持つ二人は、川崎涼介の死の真相を追う。
 というサスペンスにSF要素を加えたストーリーに耳を傾けているうちに、だんだんと外の景色が明るくなってきた。
 時刻は朝の五時半過ぎ、国道一〇五号線から一三号線へ、花火大会で知られる大曲市を通過して横手市にさしかかる。霞がかった東の空に、橙色の太陽がその輪郭をはっきりとさせていく。よかった、この様子なら天気の心配はいらないだろう。
 僕は適当なコンビニで一度休憩をとり、バケットシートの座面に低反発クッションを挟み込んだ。僕が愛用するスパルコのバケットシートは、形状は体にフィットしていて背中や腰には優しいのだけれど、尻裏部分のクッションの薄さだけはいかんともしがたく、長時間の連続走行となると尻が痛くなってくるのを経験でわかってるから、そうなる前に対処しておいたのだ。
 早朝の市街地を抜け、秋田と山形の県境へ。
 すれ違う車の数はまだそう多くはなっていないが、歩道をゆく人の姿はポツポツと増えはじめていた。朝の農作業に勤しむ老人、ペットの散歩に出かけるおじさん、部活の朝練に向かう高校生。爽やかな朝の光景を通じて、新しい一日がはじまる気配が伝わってくる。
 県境のやたら長いトンネルを越えると、ようやく山形県だ。

 新庄市に入った辺りで朝の通勤の車が一気に増えだし、ペースダウンを余儀なくされる。これまで気持ちの良いペースで走ってきただけに、ややフラストレーションが溜まるがしかたない。
 まだ仙台までは一〇〇キロ以上の道のりが残っている。
 オーディオから流れるラジオドラマはダブルキャストが終わり、ニニンがシノブ伝のドラマCDに変わっていた。「第一次スーパー古賀良一大戦勃発!」という小杉十郎太ボイスと、まさかの中田穣二演じるのパクマンにニヤニヤしながら通勤の車で混み合うバイパスをゆっくり進む。
 新庄から天童市に入ってもずーっとペースはスローのままで、途中、三度ほど曲がるべき交差点を通り過ぎるといううっかりミスをやらかしながらも、九時ころには仙台まで続く国道四八号線に合流した。
 かつてそうしてたように、もっと早い時間に自宅を出ていれば朝のラッシュを回避できたろうが、そもそもあのころとは仕事の終わる時間も職場も違うのだからやむをえまい。
 まあ、山形と宮城の県境さえ越えてしまえば、目的地はもう目の前だ。
 途中、国道沿いにあったJAのガソリンスタンドでガソリンを満タンにして燃費を計ったら、普段の街乗りではリッター辺り11か12キロしか走らないのに、16キロまで伸びていた。さすが、長距離を続けて走ると違うもんだね。
 県境を過ぎ、道路脇の景色が緑を濃くしてくると、いよいよ仙台ハイランドが近づいてきたなという気分になってくる。
 山奥なだけあって、道は曲がりくねり見通しも悪い。昔、ハイランドを目前にして、道路の真ん中に落ちていた角材をよけきれず踏んづけて左ロアアームとホイールを一本ダメにした経験があるだけに自然と気を引き締めながらのドライブになる。
 目的地まで残り十数キロ。
 そういえば、ハイランドからもっとも近くにあったコンビニはピザ屋へと変貌を遂げていた。はたして、こんな山奥までピザを食べにくる物好きはいるのだろうか。
 ほどなく、道路脇にニッカウヰスキーの工場の看板が見えてきた。はじめて自分一人でハイランドを訪れたときに、入口を間違えてウイスキー工場へと続く道に入ってしまったような記憶があるか、本当にそうだったのかはもはやおぼろげだった。
 そうして、いよいよ仙台ハイランドの入り口が見えてくる。
 

 僕は右に曲がるなり、国道とハイランド入り口の間にかかる橋の上にいったん車を停めた。

 橋の下で口を開ける谷底が深いことは知っていたが、せっかくの機会なのでじっくり見ておきたいと思ったのだ。
 そのとき撮ったこの一枚を見てくれれば、このサーキットがどういう立地にあるのかよくわかるだろう。

 先に述べてなかったが、この日は月曜日、云うまでもなく平日である。
 にもかかわらず、橋の上に停めた僕の車の横を、いかにもな車高の低い車や、いかにもなデカールで彩られた車を積んだローダーが山の上目指して何台も通りすぎて行くではないか。
 まさか混んでる? との思いは的中だった。
 入場料800円を払って足を踏み入れたコース前の駐車場は、すでに一〇〇台近い車で溢れかえっていた。
 いったい何がまさかだったのかというと、この仙台ハイランドという一週四キロのサーキット、R35GT―Rのテストコースに選ばれるなど、規模としては国内でも大きい部類に入るのだが、僕が2009年に最後に訪れたときなどは、なんと僕含めて二台しか走る車がいなかったりしたほど普段は空いているサーキットだったのだ。
 何かイベントがあったときや土日祝などはさすがに混むわけだが、平日にこんなにも混み合っているところを目にしたのは今回がはじめてだ。




 やはり、みんな気持ちは同じなのだろう。もう最後になるとわかって走りにきたに違いない。
 駐車場で隣に停まっていたアルファロメオとフィット、地元仙台市からやってきたというオーナーさんたちと話してみても、「無くすのは惜しいサーキットだよね」ということで意見は一致していた。

 さてさて、やってきたからには走らないわけにはいかんでしょう。
 まずはタワーに行って、申し込み用紙に必要事項を記入する。
 

 走行申し込み用紙にサインするということは、もし事故か何かでドライバーが死んだとしてもサーキット側には一切の責任を請求しません。との念書に一筆入れるのと同じだ。
 この春にサーキットの閉鎖が決まってからも一人が亡くなっている。僕もそうならないように気をつけねば。僕はもう車では死ねないのだから。
 受付を済ませ駐車場に戻った僕は、余計な荷物を車から下ろし、ガラス飛散防止のためのテーピングを車に施してやった。助手席の窓にタイム計測器を貼り付けるのも忘れない。

 ちょうどテーピング作業を終えたころ、走行開始時間になったことを知らせるサイレンが鳴った。それを合図に、ピットに陣取っていたトップバッターの連中がどう猛な排気音を伴いながらパドックへと向かっていく。風に乗って焼けたオイルの匂いが漂ってくる。
 目に映るもの、感じるもの、すべてが心地よかった。
 俺はたしかに、この場所にまた帰ってきたのだ。
 ……なーんて、いざ走り出す前はのんきに浸っていられたんだけどね。いやさ、ブランクってのはああもはっきり表れるもんなんだね。
 俺も行くぜ! って気分全開でコースインしたはいいものの、走り出してすぐに違和感を覚えたわけよ。
 まずね、一つコーナーを曲がっただけで気づいたんだけど、車がやたらぐにゃーってロールするの。ロールってのは言葉通り傾くってことね。
 あれっ? と首を傾げてみて、すぐに原因に思い当たった。ショックアブゾーバーの減衰力が街乗りのときのままじゃ踏ん張りがたりないのも当然です。
 こういう走る前の習慣としてやってたことを忘れてるようじゃ、ピリッとした走りなんか期待できるはずもなし。
 試しに二周だけして、すぐさま駐車場に戻ってボンネットオープン、一番細いマイナスドライバーでちゃちゃっとアッパーマウントに付いてるダイヤルを回して減衰力のセッティングを変更、そしてコースインしなおしたものの、もうお話にならないぐらいダメダメ。もちろん車じゃなくて俺が。
 頭でイメージしてる走りに、気持ちと腕がまったくついてこない。はっきり云っちゃうとビビリまくり。人間って生物が、デジタルになれないことを痛感する。
 よくゲームなんかだと、貯まった経験値は減らないし上がったレベルは下がらないもんだけど、現実はそうはいかない。
 以前はできていたことが思うようにできない。心のどこかでストッパーがかかるんだ。
 五年ブランクあったアマチュアが、一六〇キロからフルブレーキングでシケインに突っ込んで、シケインの真ん中で一瞬だけアクセル全開にしてまたコーナーに突っ込むなんてことをポンと思い出したようにできるはずがなかったのさ。

 気温が高くなってきただとか、タイヤが7年落ちで熱を加えまくったネオバだったとか、そういう車側の問題も多少はあったけど、それにしたってここまで腕が錆びてるとは思わなかった。
 あとね、昔から愛用してたグローブが、五年間もほっといたからなのか、すっかり皮が劣化していて履くたびに手のひらに黒い粉がびっしりくっついてくるという事態に見舞われたのも地味にまいった。(このグローブは供養のつもりで、走行後にハイランドのゴミ箱に捨ててきました)
 そんなこんなで、結局、台数が多いせいでコース上でのトラブルによる赤旗中断も多くて、午前中は一〇周も走れないまま走行時間が終了してしまった。
 一〇年近く前に、はじめてハイランドを走ったときよりはマシだったろうけど、およそ満足からは遠い内容に、僕は昼の休憩時間中、ずっと自分に憤っていた。
 なんたるザマだ。ってね。
 でも、それが不快かというと、そればかりじゃなかったりもする。
 日常生活の中で、こうも正直に自分に腹を立てることなんて滅多にないから、本気になってる自分というのが実感できて悪い気はしない。
 俺は、せいぜい楽しんでやろうと開き直って、午後の走行に臨むことにした。
 五年前にリビルトに載せ替えてからまだ三万キロ弱しか走ってないのもあって、エンジンの調子はいい。水温、油温、油圧もぴたっと安定している。
 壊れてくれるなよ。と祈りながら、再度コースイン。今度はちょっと気合いをいれてコーナーをせめてみる。
 ホームストレートからシケインへのアプローチ、ブレーキはなかなか詰められないけど踏むべきところはきっちりアクセルを踏むようにする。


 バックストレートからのシケインはアクセルオンで抜け、左、右と連続する登りコーナーをアクセルとステア操作だけでクリア。

 続く下りながらのスプーンコーナーには早めにインに飛び込み、一度アウトいっぱいまで膨らんでから、出口でまた鼻先をインに向ける。

 少しずつ感覚を思い出していきながら、愛車との共同作業を大いに楽しむ。
 と、ホームストレートに続く最終の右コーナーで、前を走っていた86(AEのほう)が突然白煙を吹いた。一瞬、白く染まる視界。おそらくエンジンブローだろう。ほどなく走行中断の赤旗が振られたので、ここは駐車場に戻る。
 それからまた二度ほどコースインし、少しはあのころの影を踏めるようになったかな、と思った頃合いで、僕にとって最後のハイランド走行は幕を閉じた。
 走ったのは、のべ三一周。本日の走行料金は一週三〇〇円だから、計九三〇〇円也。
 走行時間が終わり、僕が車のテーピングを剥がしていると、隣に停まっていたフィットのドライバーさんが別れの挨拶をしにきた。
「じゃあ、もしまたどこかで会うことがあったら、そのときはよろしく」
 僕より年上の彼は、そう云い残して先に帰っていった。
 僕は会釈を返しながら思った。
 おそらく、彼と再び会うことはないだろうな、と。仙台ハイランドという場所を介した、その場だけの走り仲間。一期一会とはそういうものだ。
 時刻は五時の手前、山の日暮れは早く、すでに太陽は西に沈もうとしている。
 僕は最後に、記念撮影のために解放されたホームストレート上で愛車を写真に収めて、再び三〇〇キロの帰路についた。

 この日記を投稿した今日、二〇一四年九月一五日を最後に、仙台ハイランドレースウェイは二八年の歴史に幕を下ろす。
 杜の都を見下ろす山々に、騒がしくも賑やかなエキゾーストノートがこだますることはもうないだろう。