そこに物語があれば

秋田在住、作家志望兼駆け出しエロゲシナリオライターの雑記

ブログの頭に自己紹介的なものを記しておきます。

名前
4E(よんいー)
PN:柚畑はっさく(ゲームシナリオ執筆時)

今現在(2016/12/07)の人生目標
プロ物書きとして生きていくことを当面の目標にしつつ、笑って死ねる人生を追い求めてます

好きな作品の傾向
胸がギューと締めつけられるようなラブストーリー
ほっこり心温まるようなイイハナシ
生き様を見せつけられるようなとびきりのシリアス
ドンパチ戦争もの(マクロよりもミクロ型が好きです)
何気ない日常に変態性癖をうまく落とし込んだ秀逸なアブノーマルエロス(木之本みけさんとかああいうの)
瀬戸口廉也
出崎統ダンディー
ゆゆ式(神)

好きなエロゲヒロインの傾向
健気でほおっておけないタイプ

心の底からすげえと舌を巻いたライター、作家、漫画家さん、クリエイターetc(順次増加)
栗本薫
瀬戸口廉也
早狩武志
J・さいろー
藤原伊織
太宰治
奈良原一鉄
田中ユタカ
氷室冴子
太田垣康男
新井英樹
秋山瑞人
夢枕獏
出崎統



得意な関節技
アームロック(背中側にひねりあげるほう)

趣味、好きなもの色々
昼寝
オナニー
エロゲ
創作
読書
格闘技
面白い車
家庭菜園

Twitter
http://twitter.com/ep_meister

習作

なろう
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カクヨム
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告知

ひょんなご縁に恵まれ、seal-tutu様から11月25日に発売の
『ふう☆がくっ ~必修科目は性実技! Hな授業でワンツーステップ~』
にて柚畑はっさく名義でシナリオを書かせていただきました。
初のゲームテキストです!

【ふう☆がくっ  ~必修科目は性実技! Hな授業でワンツーステップ~】応援中!!

雑記、思い出話、漫画感想「いたんだよ、やっぱり、俺の、俺の高木さんが……(アニメ宝島の最終回っぽく)」

からかい上手の高木さんという漫画を2chで紹介され、なんとなく読みはじめたのは半年前ぐらいのことだった。
 からかわれ気質の主人公・西方くんと、からかい上手のヒロイン・高木さんが織りなすむずがゆくもときどき甘酸っぱい思春期なりたて青少年の日常を描いた作品なのですが、はじめのうちは「雰囲気の良い漫画だなー」ぐらいの気軽な感じに読んでいました。




 ところがだんだん読み進めているうちに、どうも胸の奥がくすぐったいとでもいうか、懐かしさで心がそわそわしてきまして……。
 というのもね、昔、僕のそばにもいたんです。
 しつこいぐらいに僕のことをからかってくる高木さんみたいな女の子が。
 シチュエーションとか関係とか、高木さんで描かれるそれとは実際は結構違いがあるんですが、この高木さんという女の子の性格や雰囲気が、なんとなくその女の子を彷彿とさせるわけですよ。


 思い出話をさせてもらうとですね、たしか……彼女にはじめて声をかけられたのは、中学校に入学して間もないころだったと思います。
 中学に入るまで僕の世界には女の子がいなかったんです。
 いや、当然クラスに女子はいましたよ。
 だけどほら、思春期に入る前の男の子ってあまり女子と仲良くしたがらないもんじゃないですか。
 女子は自分たちとは別の生き物というか、女子と遊ぶなんてダセーよな、みたいに避けるような雰囲気があったり。
 僕ももれなくそういう男子の一人だったわけですが、僕の場合、無気力な性格だとかスポーツが下手くそだとかで、自分が女子にモテそうにないタイプだというのを自覚していたからなのか、他の男子よりもちょっとばかりとげとげしかったかもしれません。
 そんなだから、ロールプレイングゲームのパーティーは男キャラばっかで固めてましたとも。
 当時ハマってたFF7は、クラウドの他にバレットとヴィンセントという男男男なパーティーでしたね。
 中学に進んでからも基本的にはそういうメンタルでした。
「あ、女子とか、興味ないっす。つーか、近よんな」みたいな感じで。
 ちょうど、FF7の主人公・クラウドに憧れていてクールガイを気取ってたせいもあったと思います。
 クラウドが序盤でよくやる、やれやれと肩をすくめる仕草をよく真似してました。(笑)
 まぁ、中二病ならぬ中一病ですね。(笑)
 だけど、僕の住んでた地域、まぁしがない田舎なんですけれど、そこは小学校から中学校に進むときに3つの学区が合併するようになってたんです。
 なので、環境が変わるそのときにいったん人間関係がシャッフルされちゃうんですよ。
 中学に進んで間もないころですか、学校が終わって帰ろうとしたときにね、同じクラスの女の子たちからバイバイって手を振られたんです。
「えっ?」って思いっきり戸惑いましたさ。
 だって、自分の世界に女子をいれないがため、とげとげしい態度でもって心の防護壁を築いてるようなやつにですよ、フレンドリーに手なんか振ってくる女子なんかいるはずねえだろと思ってましたから。あと奥二重で目つきも悪かったし。
 なのに手なんか振られちゃってさぁ。どうするよ中一の俺。
 この予期せぬ事態にどう対処したらいいか困惑する僕の脳裏によぎったのは、「クラウドだったらどうするか」でした。(笑)
 まぁね、クラウドだったらね、肩をすくめてこう言うに決まってますよ。

「興味ないね」

 よし決まり、ってな具合にシカトをぶっこきましたとさ。バカだなぁ中一の俺。
 ところがそうした矢先に、

「手ぐらい振ってあげなよ」

 と、ふいに後ろから声をかけられたんです。
 振り向くと見覚えのないショートカットの女の子が立っていました。違う小学校からきた子です。
 どことなくボーイッシュな印象をうけるその子は、「ほら、こう」と手本でも見せるようにして、僕に手を振ってくれた女の子たちに向かって手を振り返す。
「お、おう……」とばかりに、あとに続いてぎこちなく手を振ってしまう僕。
「くそっ、クラウドだったら絶対こんなことしないのに……」と内心歯がみしながらも、本当はまんざら嫌な気持ちでもなかったのを覚えてます。
 ショートカットの女の子は、そんな僕のぎこちない姿を見てクスクス笑っていました。
 これが冒頭で述べた僕の高木さんこと、中学校のクラスメイトのKさん……いや、Kちゃん……いや、さん付けもちゃん付けもしたことがないのだから、ここはやはり呼び捨てでKにしておきましょう。
 いま、この文章を書きながら思春期の思い出で胸がいっぱいになりかけているのですが、中一の僕は高木さんの主人公の西方くんみたいにピュアではなかったので、いきなり声をかけてきたKのことをあまり快くは思いませんでした。
 まぁね、なんといってもついこの間まで小学生のガキンチョでしたから、そりゃあもうバカでしたわ。
 バカだからね、せっかく気を利かせてくれた彼女に対してこんな感じのことを思ってたわけですよ。

「おのれ、おのれ女、やい、貴様が余計な真似をしてくれたばかりに、男一匹俺はな、女子に手なんか振っちゃったじゃないのさっ!」

 ああもう魂が汚れたと。クラウドみたいなクールガイに至る道が遠のいたと。
 だが、まだ修正は可能だ。いいか女、こんな戯れは今回限りだ。とばかりに気持ちを引き締めたつもりだったんですがね。
 そういう変にクールを気取った態度こそが、からかい上手の高木さんならぬからかい上手のKさんの興味を惹いちゃったんでしょうな。
 ええ、それからKが僕のことをやたらめったらからかってくるようになるわけですよ。
 ついでに言うと、僕はこの日以来、女子に手を振られたら反射的に手を振り返すようになりましたとさ。←おい、クールガイはどこいった。い、いや、クールガイだって礼儀ぐらいは尽くすさ、うん……。
 思い返してみると、普段は女子に対してぶっきらぼうなくせして手を振るとしっかり振り返してくれる面白い人、みたいな扱いをされてた気がしないでもない。
 ……全然クールじゃねえな。


 クラウドの真似をして「興味ないね」と肩をすくめてみせる僕に対し、じゃあ興味をひいてやろうじゃないのといたずら心を湧き上がらせるK。
 さすがに古い記憶なので具体的に日々どういう風にからかわれていたのかはほとんど忘れてしまいましたが、僕が女子を遠ざけようと張り巡らせていた心の防御壁を、彼女はまったく意に介していませんでした。
 つまり、ものすごく強引に間合いを詰めてくる女の子だった!
 ええい近づくな! 女が伝染る! とばかりに僕が邪険にすると、むしろ一歩踏み込んでくる。
 なっ!? 別にテレてなんかいねーからなっ!
 ただ、ハリネズミの針にうかつに触れると怪我をしてしまうように、ペーパーナイフ程度には尖っていた思春期なりたての僕は、ときに彼女の気安さに反発を覚えてしまったこともあります。
 僕は西方くんほどピュアではなかったので、からかわれたことに腹を立てて、たぶん2回ぐらいは彼女の頬をパシンと張ったことがあったはずです。
 でも、俺だってあいつに3、4発ぐらい殴られたけどねっ! しかもがっつり!


 そんな、僕が彼女に殴られたときの話をひとつ。



 これ、高木さんのちょっとエロチシズムを感じるエピソードなんですけど、こういうご褒美以外の何者でもないようなイベントがね、僕にもあったんです。あったんですよ!
 というのもね、クールガイだった俺は女子になんか興味がなかったわけです。当然エロにだってこれっぽっちも興味なんてないんです。←ウソつきめ!
 で、ある日そういうことをこれ見よがしに口に出して言ったのかもしれませんね。

「ふふーん、ほんとかなぁ〜」

 Kがやらしく微笑みます。
 そしておもむろに両手を伸ばし、スカートの裾を掴みました。

「……見せたげよっか」

 このとき僕はものすごく心拍数が跳ねあがったと思います。顔も赤かったはずです。
 しかし、男にはプライドがあるのだ!

「興味ないね」

 そう言って机につっぷす俺。←バカが! もったいねえ!

 僕のこういうリアクションを見越したうえでKはあんなことを言ったんでしょうな。まぁ、いいようにからかわれてましたわ。
「ほらほら〜見てもいいんだよ〜」って、つっぷした僕の顔のすぐそばでスカートをファサファサやってる気配がしてたまらないものがあったんですが、そこはもう頑として顔をあげませんでしたとも。
 で、少ししてからおずおず顔をあげると、「あーあ、残念だったね」とでも言いたげに、スカートの裾から手を放したKが僕を見つめてニンマリしている。
 この余裕たっぷりの態度が気に触ったんでしょうな。
 カッとなった僕は、「おうおうっ、そんなに言うんなら見せてもらおうじゃねえか!」とばかりに、ふいにスカートの裾につま先をひっかけて真上に蹴り上げました。

 ……見えました。たしか黒だったような気がします。

 それから、Kはついさっき自分から挑発してみせたのが嘘のように、まくれ上がったスカートを大慌てで押さえました。
 その慌てふためく姿を前に、――勝った。と得意げに鼻を鳴らす僕でしたが、恥ずかしいのを押し殺すように物騒な笑みを浮かべたKから、ドスッという重い効果音が付きそうなボディーブローをお見舞いされたのはその直後のことでした。
 母親を別にすれば、Kは僕を殴りやがった女ランキングの圧倒的1位です。これはずっと不動でしょう。


 高木さんと西方くんに比べるにはやや荒っぽいですが、こうして思い返してみると僕とKは良い関係だったような気がします。
 殴り殴られで、だけど後腐れなくなんて、男友達でもそこまで感情をぶつけられた相手はいません。
 いまだからこそはっきり自覚することができますが、僕はKのことが本当は大好きでした。
 けれども、どうしたって素直になれない年頃だったんです。
 あるいは自分自身の本当の気持ちをわかってなかった。
 友人たちと好きな女の子の話になったときなんかは、「Kだけは絶対にない」と、まず最初に彼女のことを候補から除外するような始末でした。
 その絶対にないはずのKこそが、もっとも気兼ねなく話せて、もっとも心の距離が近い異性だったくせに。
 いまにして思えば、Kはからかうことを通して僕に何度も好意を伝えてくれていたのに、あのころの僕にはそれを認められるだけの素直さがなかった。


 先日部屋を掃除していたら、昔Kからもらった年賀状をみつけました。
からかい上手の高木さんがツボに入ったのもありますけど、その年賀状を見てふいに懐かしい気持ちになったのがこの文章を書いたきっかけです。
 普段は当り前のように名前を呼び捨てにしあってたくせに、年賀はがきの裏に書かれたメッセージのなかで、Kは柄にもなく僕をくん付けしていました。
 そして、Kらしくない可愛い文字で書かれた“今年もまた同じクラスだといいね”の一言が目に入った瞬間、いつかの日に置き去りにしてきた甘酸っぱい気持ちで胸がいっぱいになりました。
 あのころ、どうして僕は自分の気持ちに素直になることができなかったのだろう。
 せめて、もう少し彼女にやさしく接してあげられればなと後悔する気持ちがあります。
 バレンタインのチョコレートのお返しぐらいしてやればよかったな、とか。
 夏祭りに出かけたあの日、友人たちと花火戦争なんかに興じてないで、彼女と出店を回ってればよかったな、とか。
 おまえ実はすごい可愛いよと言ってあげたかったとか。


 僕とKは中一、中二までは一緒のクラスで席も近かったのですが、中三に上がったときにクラスが別々になってしまい、それからは廊下で顔を合わせたときなどはいつものようにじゃれあったりしたものの一緒に過ごす時間は自然と減っていきました。
 遠距離恋愛の難しさは、二人一緒にいる時間がなくなり、お互いの生活のなかから相手が消えてしまうことで、それまで自然だと思っていた関係を保てなくなることなのだそうです。
 僕とKの間が広がってしまったのはクラスが別れたのが一番大きかったとは思います。
 とはいえそればかりではなく、僕が新しいクラスでKとは別の女の子からKよりももっとストレートに好意を向けられていたのも無関係ではなかったかもしれません。
 女子から好き好き光線を浴びせられてすっかりいい気になっていた中三の僕は、かつてKにつられてぎこちなく手を振ったぶっきらぼうな中一の僕ではなくなっていました。
 少し前までFF7のクラウドに憧れていたクール気どりの少年も、スケボーを小脇に抱えて側面のすり減った靴を履いたストリート系男子にジョブチェンジです。
 そんなある日、

「なんか話しかけづらくなったかも……」

 と、Kに言われたような覚えがあります。
 中三になった僕は、以前とは打って変わって女子とも普通に会話するようになってたのに。
「そんなことねーだろ」と肩をすくめてみせる僕は気さくな感じに苦笑いしていて、いつかのクールガイではありませんでした。
 そのとき彼女が言った、「タカシ(俺の本名だ!)は、わたし以外の女子とは話さなかったのに……」という言葉の裏にある感情を汲み取ってやることができなかったのがつくづく悔やまれます。
 なぁ、K、たぶんさ、おまえが2年もああして俺のことを散々からかってくれたからこそ、他の女子とだって普通に話せるようになったんだぜ。
 ……なーんてのはいまだから言える言葉。


 その後、僕とKはそれぞれ別の高校へと進み、それからは一度も顔を合わせる機会がありませんでした。
 ですが、中学を卒業したあと、一度だけ彼女と話したことがあります。
 それは僕と一緒の高校に進んだ友人が、携帯電話を買ったことを自慢したときのことです。
 ちょっと見せてくれよ。と言った僕に、友人は何やらボタンを操作してから、真新しいセルラーの携帯電話を手渡しました。
 モノクロの画面を見ると、どこかに電話がつながっています。
 どうしたものか戸惑う僕に、友人はそのまま電話に出るよう促しました。
 仕方なく携帯電話耳に当てると、聞き覚えのある声がしました。Kでした。
 友人とKは家が近所なので、電話番号を交換していたのでしょう。
 そのとき僕とKが何を話したのかは忘れてしまいました。
 たぶん高校に入学して間もない時期だったので、適当にお互いの近況を報告しあって終わりだったと思います。
 Kの進んだ高校は僕が通う高校から2つも離れた街にありましたし、小学校の学区が違うだけあって家もずいぶんと離れていました。
 僕の生活圏には彼女の姿はなく、彼女の生活圏に僕の姿はありません。
 そうなると実にあっさりとしたもので、僕と彼女の接点はいとも簡単になくなってしまいました。

「じゃあ、元気で」
「うん、そっちもね……」

 僕とKが最後に交わした言葉は、たぶんこんな感じだったと思います。
 通話を終了して携帯電話を返すと友人は訊きました。

「K、どうだった?」
「元気そうだった」

 素っ気なく答えた僕を冷やかすように友人は言います。

「おまえら結婚しちまえよ」

 僕は、「なにバカなこと言ってんだか」と、適当に受け流しました。
 ないない、Kだけは絶対にない。と、いつかのように心の内で首を横に振りながら。


 僕とKの話はこれでおしまいです。

  

雑記、家庭菜園「まさか野菜作りにここまでハマるとは……」

 僕がひょんな思いつきから家庭菜園をはじめて早1年と少々。
 これが今現在自分でも思ってもみなかったほどハマってしまっているわけだが、そもそものいきさつがどういうものであったのかを忘れてしまわないうちに記しておこうと思う。


 ハナから家庭菜園をやろうと考えていたわけではない。最初に思い立ったのは運動不足の解消だった。
 身体を動かさないよりは動かしたほうが健康的なのは自明の理で、どうにも運動量少なめの生活を送っていた僕は、まずは月並みにジョギングやダッシュなどをはじめてみた。
 これはこれで昔陸上部に所属していたころを思い出して懐かしい気分になったのだが、残念ながらすぐに飽きてしまった。
 まぁ、マラソン大会に出ようというわけでもなければ、ことさらダイエットに執念を燃やしているわけでもない。
 なんとなくな運動不足解消のためでは、走り続けることにいまいちモチベーションを保てなかったのだ。
 
「ただ走るだけってのは、どうも生産性がない……」

 そう首をかしげた僕が、ふと目を向けた先にあったのが我が家の裏庭だった。
 もともとはいまは亡きうちの祖父さまが畑に使っていた土地なのだが、いまとなっては野生の草花の生い茂るただの野っぱらである。
 その一角を僕の親父がちょっとした家庭菜園として数年前から利用していた。
 直前の出来事として、この親父、困ったことにこぢんまりとした家庭菜園ではあきらかに持てあますであろう耕耘機を考えなしに買ってきやがったのだ。
 金をドブに捨てるのが嫌いな僕は、せっかく耕耘機を買ってきたのなら、家庭菜園の面積をもっと広げてはどうか? つーか、それぐらいやんないとわざわざ買った意味がねえじゃないかよバカバカッと提案したのだが、バカ親父め……なしのつぶてである。
 まったくもう……と呆れていた矢先、僕の頭のなかで、自身の運動不足の解消と、せっかく買ってきた耕耘機の有効活用がちょうどよくリンクした。

「そうか! 俺が畑をやればいいんじゃん! これならただ走るよりもずっと生産的だ」

 さっそく僕は、裏庭の一角に目星をつけて開墾をはじめた。
 が、その前にふと考える。

 畑を耕すってつまりどういうこと?

 小学生のころに学校の授業で畑作業を体験したことはあったものの、あれは結局のところ先生に言われるまま動いていただけにすぎなかった。

 うーん、とりあえず雑草をどうにかしないといかんよな。

 そう考え、まずは鍬を振り回し表面の土ごと雑草を削り取ってみる。
 次いで耕耘機を動かしてみると、固まっていた土が砕かれ攪拌されたことでフカフカになった。

 おおっ、なんか畑っぽい!

 そうして、OHV短気筒の耕耘機をトコトコガーガー往復させているうちに、長さ4、5メートルぐらいの畝が一本できあがった。
 ついでに、見よう見まねでマルチ(畝の表面を覆っている黒いビニール)なども敷いてみる。

 植える野菜はあらかじめ決めていた。
 甘くて食い応えがあってなおかつ作るのが簡単といわれる“さつまいも”である。
 実際、小学生のころに学校で栽培した経験もあったので難易度がそう高くないこともわかっていた。
 土の準備は出来たのでホームセンターまで苗を買いにいく。
 さつまいもは切り取った蔓を土に植えることで芋ができるのだ。
 しかし、近場のホームセンターにはこの蔓状の苗が置いていなかった。
 代わりに置いてあったのが、普通の野菜のようにビニールのポットに植えられた苗だった。



(これは今年買ったの)

 添えられていた説明文を読むと、まずはこの苗を育て、ほどよく成長したころに蔓を切り取って畑に植えていくらしい。
 順調に育てば、一個のポット苗から10本以上の蔓が取れるそうな。
 1個324円也。
 こいつはなかなか大したコスパの良さだと感心した僕は、そのポット苗を買ってきて、作りたての畝にさっそく植えた。

 が、速効で枯れましたとさ……。

(手前で葉色薄く枯れかけてるのが最初に植えた苗、奥は「こりゃいかん」と追加で買ってきた苗。失敗から学んでビニールトンネルで保温している)

 植えたのは五月の頭だったのだが、北東北の春はまだまだ寒かったらしい。
 さつまいもという植物は熱帯の生まれだけあって寒さにめっぽう弱いのだ。
 なので、日本国内でもさつまいもの名産地というのはたいてい温かいところばかりである。(茨城とか九州とか種子島とか)
 余談になるが、収量多めで生産性の良いさつまいもがじゃがいものような主食のポジションに収まれなかったのもそこに理由がある。
 苗がそうなら獲れた芋もそうで、熱帯の生まれのさつまいもは、四季があり冬になると気温がグっと下がってしまう日本では保存が難しいのだ。
(僕は越冬に成功したけどね! まだ押し入れには去年収穫したさつまいもが残ってるぜ! しかし食いきれないかもしれん……)
 寒さ対策として、追加で買ってきた苗ともどもビニールトンネルで保温に努める。
 うち一つは鉢に植えて室内で栽培することにした。

 簡単だろうと考えていただけに、出鼻をくじかれハラハラした気分だ。
 が、植物というのはなかなか大したもので、夜間は室内にしまうなどして保温に努めた苗よりも、畑にそのまま植えた苗のほうがずっと成長がよかった。



 6月も半分をすぎたぐらいから蔓が急成長してきたので、こいつを順次切り取ってさっそく畑に植えた。

 切り取った蔓からはまだ根が生えてないので、植えても1週間ぐらいはぐったりしている。
 というか、ぐったりを通り越してほとんど枯れたような状態になってしまい、このときもまたハラハラさせられてしまった。


 しかし、それもまた杞憂にすぎず、ぐったりしてた蔓がググッと持ち上がってきたと思ったら……、

 一月後にはこんなに元気に育ちました。

 結局、あれこれ手をかけているうちに畑仕事がすっかり楽しくなってしまい、はじめは1本だけだったさつまいもの畝は3本まで増えてしまった。


 こっちはさつまいもの蔓が伸びてくるまでの間に作ったトウモロコシ畑。

 このころには畑の耕し方やその目的がだいたいわかってきていてので、ちゃんとスコップで畑の土をひっくり返してから耕耘機をかけた。

 畑を耕す目的というのは、固まった土を砕いて柔らかくすることが一つ。そうすることで土のなかに隙間ができて酸素が入っていけるようになるのが二つ。それによって植物の根が伸びていきやすくなるのが三つである。たぶんもっとあるだろう。

 トウモロコシはさつまいも以上に生育旺盛で、直径1センチもないような種から僕の背丈を超えるほど茎が高く伸びていく様には植物の力強さを実感させられた。


 そして美味し。

(去年簡単に作れたもんだからすっかり慢心してしまった報いなのか、今年のトウモロコシ栽培は5月末現在苦戦中だ)


 10月になって、さつまいもは収穫シーズン。

 朝方冷え込んで霜が降りるやいなや、さつまいもの葉がいっせいに枯れ出して慌てましたとさ。

 収量は思ってたよりもずっと多めで、結構人にあげたりしたにも関わらず、まだ余ってる始末。

 なので今年は植え付け本数を減らす予定。


 秋野菜は、カリフラワーとほうれん草を植えた。



 カリフラワーは、どこからともなくやってくる青虫(モンシロチョウの幼虫)と格闘しながらも、そこそこ良いのが獲れたのだけど、ほうれん草は植える時期が遅すぎたせいか失敗してしまった。
 それでもどうにか1食分は獲れたが。



 他にキャベツとレタスも植えたのだが、こちらは大失敗。1食分も確保できなかった。
 と思ったら、雪の下でしぶとく生き延びていたらしく、春になったらまた成長してきた。

 と感心してたら、せっかく冬越ししたキャベツを根っこごと野ネズミに食われた!
 ちくしょう、いつか殺してやる……。と復讐に燃えつつ刺客を放つ。



 そんなこんなで創作と仕事の合間を縫って、去年に引き続き今年も楽しく家庭菜園をやっている。
 去年は熱心に畑を耕したが、今年からは直接手を入れて土を耕すことはしないことにした。
 これは不耕起栽培、または自然菜園とも呼ばれていて、人が手を加えるのではなく、野菜や野草が伸ばす根によって土を耕してもらおうという自然の力に頼った有機農法だ。
 俗に雑草と呼ばれる草花もなるべく抜かない。共存を図ろうというわけだ。

 その辺にある畑のほとんどは、さながら荒野のように土ばかりで草も花も余計なものはいっさい生えていない。そのなかにポツンと目的の野菜だけが寂しく生えている光景は、改めて考えてみるとどこかディストピアじみていて好きになれない。
 昔、宮崎駿が、植物の多様性を人口的に奪った結果である田園風景を眺めて自然を想起するのは人間のエゴに他ならないと語っていたのを思い出す。
 もっとも、僕自身そう言いながらも益よりも害のほうが大きい植物や虫は取り除いてしまっているわけだから、結局は人のエゴなのかもしれないが。
 そうやって畑という狭い空間の生態系をあれこれいじくっているとき、僕はもしかしたら知らずのうちに神のような気分になっているのかもしれない。
 なんだか複雑な気持ちだ……。        

連載コラム、思い出話「ぼくと、エロゲ 第22話」

 2008年の秋から暮れにかけて、僕は方々で名作と呼ばれているエロゲを立て続けにプレイしていた。
 ざっと羅列してみると、「車輪の国、向日葵の少女」「forest」「SWANSONG」「マブラヴオルタネイティブ」
 厳密にはエロゲではないが、EVER17なども並びに加わる。
 それらはそれぞれ評判通りに面白かったのだが、レビュー記事ではないので感想については割愛させていただく。
 名作と呼ばれていた作品をそれなりの数こなしたことで、僕がいっぱしのエロゲヲタを気取るようになったのがこのころだ。
 しかし、どうもこの時期以降というのは、それ以前に比べてエロゲというコンテンツから受ける刺激は減退していったように思える。
 いや、素晴らしい作品、感動した作品はあった。たくさんあった。内容だってちゃんと覚えている。
 そういう個別の作品から受ける刺激とはまた別の、「エロゲってこんなに凄かったのか!」という、まったく新しい世界に触れた感動がこの時期以降薄れていったのはたしかだった。
 まあ、特別な出会いだって、いずれは慣れてしまうということなのだろう。
 であるからして、早狩武志瀬戸口廉也との出会いについて力を入れて書いて以降は、この「僕と、エロゲ」と題した思い出話で語るような印象に残っている出来事をなかなか引っ張りだすことができず、前に記事を書いてからおよそ1年近くも間が空いてしまったわけだ。

 

 つらつらと個人的な過去を振り返ってみるなら、2008年から09年にかけてのこの時期は、公私ともに充実していた。
 仕事はすっかり慣れきってベテラン気分、趣味も、車のほうはサーキットで自己ベストの壁にぶつかっていたものの、翌年のタイムアップ目指してエンジンのOHを計画しておりまだまだモチベーションは高かった。
 エロゲについては言わずもがな、たくさんの素晴らしい作品と出会えた。
 そのわりにはどうも公私ともに強く印象に残ってる出来事が少ない。だが、不安のない時期というのはえてしてそういうものなのかもしれない。



 そういえば、非ラノベ読みから見た光景であはるが、2008年ごろは狼と香辛料ゼロの使い魔をはじめとしたラノベ原作アニメが人気で、原作の小説もかなり売れていたはずなのに、ラノベブームとはまだあまり言われていなかった気がする。
 ラノベブームという言葉がなんとなく目に入るようになったのは、俺妹がヒットしたぐらいからで、ラノベがブームらしいという情報とともに、ラノベ=ラブコメという図式が猛烈な勢いで広まっていったのもその時期からだったように思う。
 はがないが東大の書店で上位にランクインしたというニュースを耳にしたのは2010年代に入ってからだったろうか。

創作、短編「久しぶりに小説を公開してみる」

 久しぶりに小説を公開してみます。
 今さっき書き上げたというわけではなく、過去に書いた作品ほぼそのまま、いつも通り小説家になろうに載っけました。
 少し前に岩手で起こったいじめ事件の報道などを見ていて、そういえば以前いじめを題材にした短編を書いたっけなと思い出したのが公開してみたきっかけです。
 これを書いていたのは2012年ごろで、大津の事件を皮切りに相次いだいじめ問題が世間を賑わしていたころでした。
 いじめが原因の青少年の自殺などが報じられるたびに、「この手の事件って定期的に起こるよな」とは思うものの、2012年から3年が経った2015年の現在、実際にそうなってしまうとさすがにうんざりせずにはいられません。


 なお、あくまでもプラットフォームとしてのなろう利用ですが、今回少しだけなろう書式とやらを意識して「」の前後を改行してスペースを開けたりなどしております。

以下、URLとあらすじ


『はみだしものたち』
http://ncode.syosetu.com/n4117cv/


〜あらすじ〜

 小学校教諭の“ぼく”は、担当するクラスで起こっているいじめの解決に頭を悩ませていた。
 一言きつく注意すればそれで止む程度のいじめだが、そもそもいじめを受けている相川イズルにだってそうなる原因がないことはない。正してやるべきは、集団に溶け込めない川のほうじゃないのか?
 決めあぐねたまま家庭訪問に向かったぼくは、相川がクラスのいじめっこたちにからかわれている現場に出くわす。
 そこには、いつもと違い、いじめっこたちの前に立ちはだかる誰かの姿があって……。

雑記、コラム「遠く、誰かの人生」

 地元の新聞を眺めていて、ふと紙面下部の広告欄に目が留まった。
 店主の名字を冠するありふれた名前の電器店だった。二つ隣の街にあるそこは、表向きこそ電器店を名乗っているが、実際はプラモデル専門店の様相を呈しているとの話を耳にしたことがあった。
 プラモデルが子供たちに大人気だったころならいざしらず、このご時世にあってプラモデル専門店という商売は決して楽ではないだろう。
 ふと興味の湧き、一度も足を運んだことのないそこがどういう店なのか、グーグルストリートビューで外見の様子だけでもうかがってみることにした。
 店は商店街の一角にこぢんまりとたたずんでいた。
 だが、間の悪いことにストリートビューの写真が撮影された日は店が休みだったらしく、様子をうかがおうにもシャッターはピタリと閉まっている。
 しかたないので店名を打ち込んで画像検索してみる。すると、外観の写真はすぐにみつかった。
 ガラス戸には今昔のガンプラのポスターがところ狭しとベタベタ貼られていて、これぞ街のプラモデル屋といった風情を醸し出している。表ではためくタミヤののぼり旗もいい。
 続けて、店内の様子も気になった。
 しかし、こちらは外観ほどには写真も情報も出てこない。なのでテキストのほうで検索をかけていくうちに、僕はとある個人ブログに辿り着いた。
 記事には、大学か専門学校の春休みに帰郷したついでに、子供のころよく通っていた件の電器店に顔を出してきたときのことが若者らしいくだけた文体で綴られている。
 このブログ主の彼が昔はミニ四駆にハマっていただとか、プラモデル屋の店主は相変わらず笑わないだとか、成人式が近いだとか、まぁ、よくあるWEB上に公開された個人の日記だ。
 たわいのない日常話をあっという間に流し読みして、僕は検索結果に戻ろうとした。が、そこでふと、この記事の日付に目が留まった。
 2005年の4月、ちょうど10年前。これはまた、ずいぶん古い記事に辿り着いたものだと思った。
 そういえば、ちょうどブログというコンテンツが流行りだしたのはこれぐらいの時期だったかもしれない。
 現に、僕も同じような時期にブログをはじめて、主に車趣味について綴っていたものだ。
 今記事を書いてるのとはまた違うそのブログは更新しなくなって久しい。だが、2、3年で更新が止まってしまったブログなんて、僕のに限らずWEB上にいくらでもころがっている。
 たぶん、このブログもそうなんだろうな。と、なんとなく想像しながら、検索結果に戻るのを中断して、しらない誰が書いたこのブログのトップページをクリックしてみた。
 すると意外なことに、ブログは2015年の今でも更新され続けていた。
「ほぅ」と、思わず感心の声が漏れる。
 頻繁に更新しているふうではなかったが、それでも一つのブログを10年続けるなんてなかなかできることではない。
 継続力の他に、もう一つ感心したこともあった。
 ほとんど喋り言葉のようだったジャンクな文章が、スマートかつ妙に読ませる文章へと変わっていたのだ。
 ただ漠然と文字を書いているだけで文章が洗練されていくわけではないことが身にしみている作家志望の僕としては、 いったい何がきっかけで彼の文章が変わったのか気にならずにはいられなかった。
 比較的最近の日記をつぶさに読んでみる。
 職場の同僚と山に登った。友人とフットサルを楽しんだ。同期に二人目の子供が生まれた。
 断片的に散りばめられた情報を拾いあげていくうちに、この彼が僕と同年代であることがわかった。結婚もしている。転勤がやや多い仕事をしているようだが、さりとて不満があるわけではないらしい。
 ひと通りそろった人生。
 表面的な情報だけをすくいあげれば、単なる幸せ自慢のブログにしか思えないだろう。
 たけど、日記に添えられた楽しげな写真とは裏腹に、彼の文章は妙にセンチメンタルで、言いようのない寂しさのようなものが滲み出ていた。
 幸せはそれを味わっている瞬間だけが真実で、過ぎ去ってしまえば寂しさの反動に襲われる。
 尊いものだとわかっていて噛みしめれば噛みしめるほど、苦い後味が残ったりもする。
 幸せなはずの彼の日記は、そういう寂しさでいっぱいだった。

『これからも大切な人はこの世の中からいなくなり続けるんだろう。』


 旧友の死に思いを馳せる彼の言葉だ。この直後に続く前向きな言葉が、彼の抱える寂しさを余計に際立たせてるように思えた。

『俺は自分が最終的に手に入れたいものや、自分がどうしてもやりたいことを知っている。
そして、それが、きっと叶わないだろうこともわかってる。
帰り道
ゆっくり、ひとつひとつをひもとくように考えながら歩いていたら、それはわかった。
仕事をして、酒を飲んで寝て、また仕事に行く毎日。
帰り道に、月は出ていない。
もうすぐ朝。』

『俺は、きっとカウボーイにはなれないだろう。
なる術を知らないし、カウボーイになるためには、俺は少し、不自由すぎる。』

 彼は日記のつもりで書いてるのかもしれないが、ほどんど詩に近い文章だ。
 それと、彼の身にのしかかる倦怠感を僕もよく知っている。それに堪えきれなくて、僕という蛙は井戸から飛び出そうとした。
 ふいに、なぜ彼の文章が変わったのかわかった。
 彼自身が変わったからに違いない。
 孤独は人を詩人にし、苦悩は人を哲学者にする。
 時間の流れは人を変える。気持ちが移り変われば文体だって変わる。これからも変わってゆくのだろう。僕も、彼も。
 ひょんなきっかけで出会った、しらない誰かの人生に思いを馳せた。そんな、五月のある日のこと。
 春は過ぎ去り、外は初夏の日差しが降り注いでいる。

アニメ感想「ゆゆ式、堪能させていただきました」

 あー、ついに終わっちゃったなぁ〜。と、ほのかに寂しさを覚えつつも、存外ケロッとした気持ちで、僕は“ゆゆ式”の最終回を視聴し終えた。
 そして心の底から思った。
 なんて! なんて素敵な作品なんだッ!!
 ええ、少しの誇張もなくそう思ってますとも。


*****

 今になってゆゆ式を見はじめたそもそものきっかけは、迫真情報処理部なるくっそしょうもない動画だったわけですが、それより前から日常系の極致との評判を聞き及んではいたので、いつか観たいアニメとして気になってる作品でした。
 それでいざ観はじめてみたら、まったりほのぼのしていて好印象で、「あ〜癒される〜」なんてモニターの前でニヤニヤすることしきりだったんです。
 序盤の時点で、4年前に再放送でやっていたけいおん!を観たときぐらいには楽しめていたと思います。そういえば、けいおんも何の気なしに観てたらハマっちゃったアニメでした。
 でもね、正直に言うと、はじめのうちはよくできた日常アニメ以上の感想はなかったんです。
 仲良し三人組がキャッキャッウフフする様子には癒されたけれど、それもこれも想定した範囲内の好評価に収まってました。



(一応紹介しとくと、ゆずこ=ピンク色、縁=紫色、唯=黄色)


「摂取しすぎると薬から毒になりそうなので、一日一ゆゆ式に抑えてます」みたいなことをつぶやいたのは3話を見終わった辺りでしたか。
 これも正直に言いますが、いっぺんに観たら飽きちゃいそうな予感があったんです。抑えてたというよりは、一気に観ようとまでは思えなかったというのが本音ですね。
 とはいえ、ただまったりしてるだけじゃない何か独特な雰囲気があるのはずっと感じてました。
 会話のテンポ、表情の変化、眼差しの向く先、やたら丁寧に描写されるそれらは自然なんだけど、これまで観たことのあった日常系アニメのそれと比べてどこか違和感を感じる。
 その正体は、5話を発端にして僕の中でだんだんと具体化してきます。
「唯と縁と、ゆずこ」と題された5話では、幼いころからの親友同士なのは唯と縁の二人だけで、しばらくあとから仲良くなったゆずことは積み重ねてきた思い出の量に差があることが明らかになります。
 タイトル通り読点「、」のぶんだけ詰めきれない距離があって、二人の間に入っていけないゆずこが露骨に疎外感を味わうエピソードですね。
 同時に、ゆずこのネタ振りがことごとく空ぶるエピソードでもあります。
 しりとりをしようと思いたっても、タイミングが合わないせいでぞんざいにあしらわれてしまったり。「なんで生き物は死ぬんすかねえ」と気軽には答えづらい話題を切り出しては、二人をキョトンとさせたあげく自分から話を取りさげてしまったり。振ったネタを必ずしもすんなりとは受け取ってもらえないことがはっきり示されるわけです。
 ここで僕は何か一つの解答を得たような気がしてストンと腑に落ちました。
「そうか、だから彼女たちの会話には妙な緊張感があるのか」って。
 ほら、誰かに話を振るときって、ピリピリするとまではいかなくとも、少なからず緊張するじゃないですか。
 きちんと受け取ってくれるかな。興味を持ってもらえなかったらどうしよう。退屈させちゃったら悪いな。ってね。
 ゆゆ式の登場人物たちもそうなんだと、5話目にしてようやく気づいたんです。
 なのに、なんだかんだで日常アニメ的な仲良し空間を演出できてこれたのは、そういう雰囲気を維持しようと彼女たちがコミュニケーションに気を使ってたからなんだ、と。

 「あの3人は単純な仲良しグループじゃなくて、実はお互いすごく気を使い合っているところがあるんですよね。仲良しのままでいたいということに一生懸命なんです。そこが『ゆゆ式』の特徴の一つなんだと思います」

 とのコメントが制作スタッフへのインタビューにあるように、あの雰囲気ってのは無条件に形成されてるものではなくて、三人それぞれが日常を楽しく過ごそうと意識しているからこそ出来上がってるんでしょうね。
 ゆずこが「なんか細々つっこませてごめんね〜。しんどい?」と、毎度のボケにしっかりツッコミを入れてくれる唯をさりげなく労るシーンからも、彼女らが意識してその関係の維持に務めてることがうかがえます。
 はい、特に大きな役割を担っているのはゆずこなんです。ムードーメーカーである彼女のペースが狂うことでコミュニケーションにちょっとしたズレが生じてしまう5話は、ゆゆ式という優しい作品が併せ持つ繊細さを象徴していました。

 これ以降、唯と縁と、ゆずこの間の距離が気になってしょうがなくなるわけです。そして、コミュニケーションがキーワードだと気づいたことで作品を見る角度も変わってきます。
 

 
 自然とイチャイチャできちゃう幼なじみ二人との間に越えられない壁があることを理解していながらも、ひたむきにコミュニケーションをとり続けるゆずこの健気さが愛おしくてたまらん! がんばれゆずこ!
 この自販機のシーンのギャップなんかは、ゆずこが半ば意図的にムードメーカーを演じていることを暗に示唆しているように思えます。


 
 つーか、ゆずこの背中寂しすぎだろ……。

*****


 同じクラスの、あいちゃんたちサブキャラ三人組が画面に登場する機会が増えてからはさらに味わいが深みを増してきます。
 

 (左から、佳、ふみ、あいちゃん)


 下の画像、あいちゃんグループに属してる佳がメイン三人組の会話に横から加わるシーン。ここ、僕のお気に入りです。

「あわわわ……」って感じに慌ててるあいちゃん。ひっこみじあんなところのある彼女からしたら、物怖じすることなくよそのグループの会話に入っていっちゃう佳の大胆さは端から見てるだけでもハラハラしてしょうがないんでしょうね。(あいちゃんが唯ちゃんLOVEすぎて普段まともに話しかけられないのも大きい)
 このサブキャラ三人組とメインの三人組は一年生のときはあまり接点がないんだけど、二年に進級してから少しずつ距離がつまってくのはちょっとリアルっぽくていいですね。
 僕も、一年のころから同じクラスだったのに、三年になるまでほとんど話す機会のなかったクラスメイトがいましたから。
 もう一つこのシーンで目にとまったのが、いきなり話しかけられてちょっとたじろぐ唯の姿。
 唯はメイン三人組の中ではツッコミ役で、パッと見気の強そうな印象をうける子ですが、その実、人付き合いが得意なほうではありません。

 普段あまり接点のない相手からふいに話しかけられたときなどは、唯だけがあきらかに身をこわばらせてるんですよ。 


 こういった描写の細やかさの他に、モニターの向こう側にいるキャラクターたちがこちら側の僕らをまったく意識しておらず、あざとさを感じなかったのも好印象でした。
 ゆずこは、あくまでも唯ちゃん縁ちゃんたちをおもしろがらせるためにギャグを披露しているのであって、視聴者を笑わせるためにやってるんじゃないんです。
 だから、彼女たちは実に生き生きとしているし、自然な表情を見せてくれるんです。
 特に笑顔が素敵でしたね。数ある日常アニメでも、キャラクターたちがこんなによく笑うのはゆゆ式ぐらいじゃないでしょうか。

 場を盛り上げるための明るい笑いと、本当におかしくて吹き出さずにいられない腹の底からの笑いとでちゃんと違いを区別できてるのも流石の丁寧さ。

 *****

 ゆゆ式を全話見終えてから、ネット上に転がる感想を眺めていて、ふとこんな言葉が目に留まりました。

ゆゆ式を好きになる人は、人間不信の気がある」

 これ、わからなくはありません。
 人間関係やコミュニケーション、気づかいといった言葉は、創作物においてネガティブなイメージで扱われやすいですから。
 ゆゆ式で描かれるそれらをシビアに見つめてしまうと人間不信なんて言葉が口をついちゃうのもなんとなくわかるんですよ。
 たとえば、こんな言葉を目にしました。
 
・ゆずこが道化を演じてるようにしか見えなくていたたまれない。
・唯と縁は何もしなくてもずっと仲良しだけど、ゆずこはコミュニケーションをとり続けないと友達のポジションを確保できない。
・ゆずこが空気を読むのは嫌われるのが怖くてしかたがないから。


 でもね、そう暗黒面に囚われた瞳でゆゆ式を見なくてもいいんじゃないかと僕は思うんです。
 どうしてゆずこがああも一生懸命コミュニケーションをとり続けるのかというと、それは唯ちゃんのことが大好きだからでしょう。もちろん縁ちゃんのことだって好きに決まってます。
 好きな相手と一緒にいて緊張したり気を使ったりするのは、なんら不自然なことではありません。
 空気を読み、気を使い、そうやって意図して作りだされた仲良し空間だとしても、その下敷きに好意や善意があれば、そこで過ごす優しい時間は嘘じゃないと信じたいです。
 それに、ゆずこは自身が思ってるよりもずっとみんなから愛されてますよ。

 9話で、いつものごとく仲良さげに会話に華を咲かせる幼なじみ二人を前にして、「なんだよ、仲良しかよ……」と、すねたようにこぼすゆずこに、「おまえもな」と唯ちゃんがさも当り前のように言うシーン。
 10話で、ノリが空回りして疎外感を覚えるゆずこに、縁が唐突に「愛してるよ〜」と言ってあげるシーンなんかは、ゆずこが二人から愛されてることがわかって心安らぐ一コマです。
 あいちゃんからも、「もし子供が生まれたら、野々原さんみたいな子に育ってほしいな」とまで言われてますし、唯との距離が縁より近いときだって実はしょっちゅうあります。
 

*****
 
 サン=テグジュペリ著作の中にこんな言葉があります。

「世の中にはたったひとつの贅沢しかない。それは人間関係という贅沢だ」

 僕は、ゆゆ式の素晴らしさもきっとこれなんだなと思いました。
 全話を見終えて存外ケロッとしていたのも、人づきあいを肯定的にとらえてるあの子たちならこれからもきっと仲良くやってくさ、と信じられたからです。
 それぞれの仲良くしたいという意志がちゃんと実を結んでるから優しい世界が出来上がっているんです。

 エンディング曲の歌詞は、ゆゆ式の素敵な部分をよく表してくれていて気に入ってますね。

『いつもの君の笑顔が  すごく嬉しいから もっと笑わせちゃえ  そんなノリでいくよ
リズムはちょっとチグハグ 姿勢は STAY ぐだぐだ 楽観的 推奨 フワフワがいい
集まれば無意識に テンション少し高め  のんきのレベル上げて ゆるりご機嫌な  ひととき過ごしちゃおう!
ありふれた言葉でさえ 優しさ行き交って 絶妙な居場所にしてくれるね
少しズレてることでも 意外にも君には 響いていたりして  いつの間にか笑顔』
                  〜ゆゆ式エンディング曲「Affection」〜


※以下、お気に入りシーンをいくつか。

なんだよ、いいやつかよっ。

 佳→あいちゃん→唯というなんとももどかしい片思いの一方通行! そのせいで佳は唯のことをはじめのうちは快く思っていない。
 それでなくても唯ちゃんモテモテだしね。三人組の中心にいるしね。あと、クラスメイトだけどほとんど交流がないのも大きい。
 

 だけど、快く思っていなかったはずの相手に親切にされてしまい、「なんだよ、いいやつかよっ」と、どこか悔しそうする佳の姿は微笑ましいったらない。いいやつは憎めないもんね。
 たぶん佳は、自分があいちゃんに片想いしてるのを自覚してない。めちゃくちゃ気になってはいるだろうけど。思春期の男の子っぽいメンタリティの持ち主だし、しかたないね。それを理解していて佳をからかうふみも良いキャラ。


いらいら……。

 唯ちゃんLOVEなんだけど、相手にその気はないのをわかってて、普段から慎重に距離を測ってるゆずこからすれば、横から会話に入ってきて唯とスキンシップを図っちゃう佳の馴れ馴れしさはさぞ不愉快だったはず。
 真ん中のコマは、「おまえ気安いぞ」と目で語ってるのがありありと伝わってくる。たぶん、攻撃してるときもこの無表情だろう。ちょっといたずらしてやるかという顔ではない。要するに嫉妬。
 だけど、後日その馴れ馴れしさがゆずこにも向けられることで、単にそういう性格なんだというのがわかってひとりでに和解しちゃうのがゆゆ式らしいいたわりと友愛。


縁さん珍しくキレる。

 縁という子は、外見通りいつもニコニコしていて、言動もおっとりしているんだけど、そんな彼女が作中で一度だけ不快感を露わにしたことがある。

 可愛いつもりで描いたキャラクターのイラストを二人に笑われたときだ。
 可愛くないと言われることはわずかながらも想定していただろうが、まさか笑われるとは思ってもみなかったのだろう。
 おそらく、これを縁は本能的に侮辱と受け止めたんだと思う。笑わせるのは好き、笑われるのは嫌いという感覚は僕もわかる。
 そこで不快感を内に秘めずにはっきり外に出すのは、実はとても縁らしい。マイペースで裏表がない。それはつまり我が強いということでもある。



わたし、なんてことをっ……。

 夏休み、プールサイドにしゃがんでいた縁をいたずらのつもりで水に落としたゆずこ。
 だけど、そのノリは普段は唯にやってるものであって、そういうネタ振りをされたことのない縁は思わずキョトンとしちゃう。「えっ……」って感じの表情でね。
 微妙な空気が漂う中、唯からのとどめの一言がぐさりと突き刺さる。
「ひどいやつだな、おまえは」
 罪悪感に苛まれたゆずこは、とっさに自分で自分をビンタする。それが上の画像。ゆずこがんばれ。


わたしひどい

 ゆずことあいちゃんが仲良くなる前のワンシーン。
 本屋で立ち読みをするゆずこを見かけたあいちゃんは、恋敵であるゆずこと本の趣味が合うことに気づいて「ショックなようなうれしいような……」と複雑な気持ちを抱くのだが、「ショックとか、わたしすごい失礼。わたしひどい!」と、すぐさま自らを恥じる。
 負の感情を一瞬抱きながらも、それを恥じることのできるあいちゃんはとても良い子。
 僕が思うに、ゆずことあいちゃんだけは唯へのLOVEを自覚してるはず。たぶん、この二人は唯ちゃんでオナニーでしてる。(唯ニーと命名)
 縁が唯に向ける好意は限りなくLOVEに近いLIKEだろう。


誰に向けた言葉?

「おまえは、ただ愛されて生きるんだな。わたしが愛してやるぞ」
 飼い犬の散歩中もふみがこぼす意味深な独り言。