連載コラム、雑記、思い出話「ぼくと、エロゲ 第10話〜でも、お高いんでしょう・2007秋〜」
「エロゲが面白いといったって、結局はたかが18禁のゲームでしょ。それにポンと5000円以上はだすのはなぁ……」
というのが、エロゲに手をだしたばかりのころの僕の正直な気持ちでした。
まぁ、いうまでもなくケチだっただけなんですが、とりあえず、線を引いていたのが5000円だったわけです。
けどね、「うわっ、エロゲおもしれー!」と、あっさり気持ちが切り替わると、もっともっと面白い作品に触れたいという欲求が瞬く間に膨れ上がっていきまして、線引きを取っ払うきっかけは思った以上に早く訪れるんです。
そのころ……、というか今でもなんですが、エロゲ名作議論みたいなのをはじめると、必ずといっていいほど名前が挙がる作品がありました。
『CROSS†CHANNEL』
ファンから狂信的とでもいうべき支持を集め、今なお語り継がれる名作エロゲの代表格です。
07年当時、発売から数年を経ていたにも関わらず、この作品は高値安定が続いており、エロゲをはじめたころは手を出すのに躊躇していました。
だけど、名作だ神だなんだと囁かれているのを耳目に入れると、興味を膨らんでくるじゃないですか。
そうこうして、僕はいよいよ高額ソフトに手を出しはじめます。
エロゲ単体に5000円以上支払ったのは、クロスチャンネルが最初だったと思います。
厳密には、中古相場が高値安定な作品自体は、それ以前に手に入れてはいたのですが、どうにも巡り合わせがよかったみたいで、相場に対する勉強の足りない県内のゲーム屋からリーズナブルな価格で入手できていたんですよ。
(その店の値付け基準は、とりあえず新しければ高く、古ければ安いだったのだ)
で、クロスチャンネルを皮切りに、中古が安くないソフトもどんどん買っていくようになったわけでして。
僕、発売から数年経ってた“あやかしびと”をわざわざ新品で買いましたから、それも通常版を。
(次の年に燃焼系パックなるお買い得セットが発売されましたとさ、ぐぬぬ)
あ、WiLL系列繋がりで、“遥かに仰ぎ麗しの”もわざわざ通常版を新品で買いましたね。
殿子がシャレにならないほど可愛いかったので、特に損した気はしませんでしたけど。
殿ちんハァハァ……(;´Д`)
今回記事を書くにあたって、あのころ高値で買った作品の相場が現在どうなってるのか軽く調べてみました。
当然ながら、ほとんどは値崩れしていましたね。
思い出しましたけど、“最果てのイマ”なんか、僕が買った直後にフルボイス版が発売されて、みるみるうちに中古相場が下がっていきましたし。くそう……。
一方、“群青の空を越えて”や“こなたよりかなたまで”なんかは、当時とさほど変わらない値段で売られていたり。
カタハネなんかは僕が買ったときの三倍の値段になってますし。
あと、装甲悪鬼村正の木箱ってほぼ新品の値が付いてるんですね。
※ゲーム本体もですけど、意外なほど高値がついているのがファンブックやノベライズ、ムック本です。
CARNIVALの小説版はプレミア化していることで有名ですが、素晴らしき日々のファンブックがあんな値段で取引されているとは知りませんでしたよ。
やっぱり紙の媒体は数が出ないと一気にプレミア化しますね。
僕が古本屋から105円で買ってきた“パソコン美少女ゲーム歴史大全”なるムック本も、いい感じに高値がついてますし。
この辺はいざ食うのに困ったとき、良い助けになってくれそうなので大事にしないと。
連載コラム、雑記、思い出話「ぼくと、エロゲ 第9話〜ぱそこんのおべんきょう・2007秋〜」
CPU Celeron 366MHz
メモリ 64MB
HDD 8・1GB
OSはWindows98
前にも書きましたが、これが僕が社会人になってはじめて購入したノートPCにして、エロゲにのめり込みはじめたころの主力機のスペックです。
要求スペックの低い同人ゲーのひぐらしや、02年辺りまでの作品にはこれでも充分対応できていたんですよ。
けどね、03年ぐらいの作品となると、急にきつくなってきまして、ゲーム本編はどうにかなっても、MPG形式のOPムービーが、ふぇぇ、カクカクだよぉ〜。
まあ、エロゲの推奨動作環境というのを甘く考えていたんですよねえ。
必須動作環境さえ満たせばどうにかなるだろ、と。
07年当時としてもへっぽこスペックだったノートPCに、わざわざDVDドライブを外付けしたのに。
ええ、OSがWindowsの98なのにDVDドライブですよ。
これがもういきなり落とし穴。
知ってる人もいるでしょうが、素のWindows98ってDVDドライブをつないでもドライバーの関係で動かせないんですよねー。
これがドライブを買ってしまってから気づいたんだからもう遅い。
そこで僕がとった手段はというと……、
おや、Windows98の様子が……中略……98はMeに進化した!
といった具合に、OSをアップグレードしたわけです。
MeたんですよMeたん!
ドジっこOSともっぱら評判のあの娘ですよっ!
とはいうものの、実際はMeに悩まされたことはなかったんですけどね。
ただ、DVDを読み込めるようになったからといってスペック不足は一向に解消されないんですよねー。ねーっ。
決定的だったのが、2003年発売のあした出逢った少女という作品をプレイしようとしたら、画面の切り替わりが遅すぎてどうにもならなかったんです。
……いよいよPCスペックの限界がやってきました。
というわけで、2、3万ぐらいで中古のPen3搭載のノートPC(またもやDynaBook)をヤフオクで買いましたとさ。
ところが、
ところがッ、
中古PCには基本的にOSが入っていないという落とし穴がッ!
「おーえす? えへへ、まえのぴーしーのがあるからだいじょうぶなんだよっ」
ぐらい甘く適当に考えていましたとも。
当然ダメでしたよ(一応インストールはできた。だがドライバー類が……)。
ネットも繋がってねえですし、初心者上等レベルの知識ですし、新しいPCは一夜にして無用の長物になりましたとさ、ぐぬぬ。
だが、ここでめげてちゃエロゲができぬ。
というわけで、はい次。またもや中古です。
今度はPen3搭載のデスクトップPC。
これに併せてモニターやらキーボードやら、デスクトップを使用する環境も整えました(このとき買った液晶モニターまだ使ってます)。
こいつは頑張ってくれました。
さすがPen3、低発熱でファンも静がです。
まあ、結局2カ月ちょっとしか使いませんでしたけど……。
あまりに早い乗り換えのきっかけとなったのが、そのころ買った“AYAKASHI”という作品。
この作品、今の基準からみてもOPムービーのクオリティが非常に高いのですが、併せて本編のほうも演出が凝っててグリグリ動いてくれるんです。
http://www.youtube.com/watch?v=l-Gv0nsls1M
で、その辺りこそがこのPen3機のウィークポイントだったわけでして。
……CPUは推奨スペックを満たしてる
……メモリもOK。
……HDDにも空きはある。
じゃあなんなのさ! と激おこで要求スペックを調べてみたら、VRAM容量なるものがまったく足りてない。
ここに至って、僕ははじめてグラフィックボードなるものの存在を知ったわけです。
だったら、他のスペックは足りてるんだから、グラボを強化するまでよッ!
というわけで、後付けのグラボを買いました。もちろんまたもやヤフオクで。
ケースを開けたらPCI−EのコネクターがないのでPCI接続のグラボを購入です。
が、ふぇぇ〜、画面がまっくらだよぉ〜。
えっとね、調べたらね、なんでも、メーカー製のパソコンはそういう後付けのパーツと相性が悪かったりするんだって。
オウフ、無駄な出費キタコレww
はてさてどうしたものか……じゃなくて、今さら立ち止まれませんよ。
Pen3機の次はPen4の投入です。
モニターやら何やらは揃えていたのでこいつもデスクトップで。
この子は本当に頑張ってくれました。
なんだかんだで三年使いましたから。
今に至るまで壊れませんでしたし。
ただ一つだけ、熱の問題が最後までつきまとったのですが……。
それに気づいたのは中央東口×東出祐一郎コンビの出世作にして最高傑作“あやかしびと”をプレイしていたときのことです。
この作品、プログラムの関係なのか、CPU使用率が自然と高くなりがちなんですよ。
公式にCPU使用率を下げる修正パッチが出されているぐらい。
そして、CPU使用率が高い状態が続いた結果待ち受けているのが、熱暴走による警告無しの強制終了でした。
もうね、エロゲに熱中している最中に強制終了なんかされた日にゃたまったもんじゃない!
ば、馬鹿やろう! こっちはもうパンツまで脱いじゃってるんだぞ!
特に夏場なんか最悪でした。
今でもそうなんですけど、僕の部屋がノーエアコンなのもあって、PCの熱がやばいやばい。
温度を表示するソフトとにらめっこしながらエロゲをプレイしていましたから。
何か対策を……と思って、アイスノンをケースの上に乗っけてみたり、色々やってみた結果辿り着いた手段が、フェイスオープンならぬケースオープン。
つまり大気解放、ケースを開けっ放しにすることで熱がこもらないようにするという最終手段でした。
まぁ、使うときだけオープンにしてやればさほど埃も入りませんしね。
ふぅ、これにて一件落着っと。
そして現在は2010年にはじめて自作したPCを使ってます。
これもOSの関係で来年には新しいのにバトンタッチですね。
※まだPCが最初のだったころに中古で買ったバッファローの外付けHDDがまだ生きてるのが地味にすごい。
連載コラム、雑記、思い出話「ぼくと、エロゲ 第8話〜エロゲライターを知る・2007夏〜」
僕がエロゲをプレイしていてシナリオライターを意識するようになったのはいつごろなのか。
その答えに辿り着くヒントは、ガガガ文庫の創刊時期にある。
というのも、ガガガ文庫が創刊したのって、ちょうど僕のエロゲ熱が加速しはじめたころなんですよ。
小学館がガガガ文庫なるライトノベルレーベルを新設するよー、という情報を2chの萌えニュース板で目にしたのが2007年の初夏ぐらいですか。
そのときにもっとも話題になっていたのが、“田中ロミオ”がラノベデビューするとの知らせだったんですね。
だけど、僕にはいまいちピンときませんでした。
だって、田中ロミオしらなかったし!
ただ、どうやらエロゲライターらしいというのはスレッドの流れに目を通しててわかりましたし、そこまで騒がれるだなんてどういう人なんだろうと気にはなって調べてみたら、田中ロミオ=山田一なんて記述が目に入りましてね、 「あーっ、この人知ってるっ!」となったわけです。
その時点で加奈と家族計画はプレイ済みでしたので、山田一って名前ぐらいは聞き覚えがありましたから。
思えば、このころはまだエロゲをただ作品単体としてしか見てなかったんですよ。
その先、向こう側にいる人たちにまで興味が及んでいなかった。
本格的にシナリオライターさんを意識しはじめるのはもう少しあとになってからですね。
ちなみに僕は最初のころ、麻枝をあさえだとか読んじゃってました。
それぐらいの無知だったのです。にはは。
その他、ライター絡みで07年ごろの記憶としてぼんやり覚えてるのは、エロゲ関係のスレッドで名前が挙がることが多かったのが田中ロミオさんとるーすぼーいさんがダントツだったことですね。
この二方の名前が出ると色んな意味でにぎやかになったものです。ええ、色んな意味で。(選民という言葉をおそらくこのとき知った)
奈須きのこさん辺りはほとんど天上人のような扱いで、あえてもうエロゲのスレッドで名前が挙がるような存在ではありませんでした。
1Fate
2月姫
3らっきょ
みたいなコピペがよく貼られてましたね。
Fateは文学、CLANNADは人生とかも。←最近とんと聞かなくなった。
今や売れっ子脚本家の虚淵玄さんなんかは圧倒的にニッチな扱いでしたっけ。
あ、丸戸史明さんはまったりした扱いでしたけど
「丸戸さんいいよねー」
「そうだねー」
以上。みたいな。
話題に上るだけで、「丸戸信者のステマだ! 殺せ!」という鉄火場のふいんきではありませんでした。
まぁ、一番ネタ扱いされてたのは健速さんでしたしね。
健速作品について何か書こうものなら、すごいレスポンスで健速乙されてたものです。
……なんか文字数が少ない感じがするので、ボトムズ風に次回予告でも、銀河万丈ボイスで脳内再生してくれると助かります。
遠き日、男は思った。
このPCでしばらく大丈夫だろうと。
巡って今、男は思った。
このPCではもう無理だと。
そして男はかつての愛機に別れを告げ、新たな愛機と一歩を踏み出す。
だが、その行き着く先は底の見えぬ泥沼だった。
次回「推奨動作環境」
そのCPUは、サラマンダーのごとき熱い息を吐く。
コラム、雑記「汝自身を愛せ」
出崎統さんという今はもう亡くなられてしまったアニメ界の巨匠がおられるわけです。
僕はこの人の作品が不思議と性にあいまして、手がけたアニメを空いた時間に少しずつ観ていったり、インタビュー記事を探したりなんかしているんですが、つい先日、「あっ、こりゃどおりで性にあうわけだ」と納得しちゃうような台詞に出会えたので、これを心に置き留めるためにも書き出しておこうと思います。
『 何があっても、どんなことがあっても、自分を嫌いになってはいけない。決して自分をボロクズのように扱ってはいけない。
他人に誇る事は無いにせよ、自分の良い所を見つめ、愛し続けなくてはいけない。
私はね、マリ子。
お前の目から見れば、どうにも許せない人間だ。
私を知っている誰もが、私をくだらないやつだと言うだろう。
家庭を顧みず、仕事だって一流とはいえない。生き方だって、ただ流されているだけだ。
でもね、マリ子。
そんな私でも、ほんの少しだがいい所があると自分では思っている。
誰にも見えないが、私だけが知っている、いい所が少しはあると思っている。
私はそれを大事にしているんだ。ひそやかだが、愛してさえいる。
どうしてかわかるか?
それが無いと生きられないからだよ。
いや、それさえあれば、どんな事があっても生きていけると思えるからだよ。』
いつだったか、3月のライオンをダシに自己肯定について書いたことがありましたけど、こうやって自分を受け入れてあげるのってすごく大事なことだと思うんですよ。
他人とは簡単に縁を切れますけど、自分と縁を切るのは生きている限り不可能じゃないですか。
それと、上記した言葉のキモは、これを云っているのが立派とは正反対の、社会常識的には限りなくクズに近い人間だという点です。
『醜くても 愚かでも、誰だって人間は素晴らしいです。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は素晴らしいです』
もう何度抜粋したかわからない尼子司くんの台詞なんですけど、これだって半分ぐらいは自分に云い聞かせてる節があると思うんですよ。
醜くても愚かでも、自分という人間や、自分という人間の一生を素晴らしいと思わないとさ、満たされる瞬間なんて永遠にやってきませんよ。
それでなくたって、自分だけでも自分を素晴らしいと思ってやらなきゃやってられないときってあるじゃないですか。
他者承認を鼻で笑い飛ばすつもりはありませんが、自分のすべてをわかって認めてあげられるのは、やっぱり自分自身をおいて他にないと思うんです。
ふと思ったのが、僕がJ・さいろーさんや木之本みけさんのキャラクター造形が好きなのって、日常的な一般性と非日常的な変態性をきちんと併せ持ってるからなんですよね。
要は、良いところとダメなところですか。
良いところ、きれいなところは、自分でも肯定してあげやすいですし、他者からだって承認されやすい。
けど、ダメなところ、醜いところは、自分でも肯定しづらいし、ましてや他者からなんてまず認めてもらえない。
それでね、J・さいろーさんや木之本みけさんのキャラクターたちだって、やっぱり葛藤するんです。だけど、最後にはちゃんと自分の意思でダメなところを肯定してあげるんです。
「女の子ってこんなにかわいいんだから、おしっこぐらい飲みたくなって当たり前だよね」って。
つい先日、宮崎駿監督が新作映画「風立ちぬ」公開の関係でTVのインタビューに答えていたんですが、その中で魔女の宅急便を振り返ってこう云っていました。
「自分探しの時代は終わった」
探した末にみつけた自分と、どう向き合っていくのかがこれからの時代を生きる鍵なのかもしれません。
僕自身、自分がどういう人間なのか最近少しずつわかってきて、それに関わらず自分のことが結構好きだったりするのですけれど……、まぁ、実際は自分を好きになろうと意識しているからそう思えているだけなのかもしれませんが。
結局これ、創作なんかにも同じようなことが云えて、後にも先にも自分が自分の作品を愛してやらないと創り続けてはいけないんだよね。
現時点での結論なんですけど、自分を好きでいられるうちは、人生なんかいつだってEASYモードになり得ると思うんです。
それと逆に、自分を嫌いになりはじめると、途端にHARDモードに選択カーソルが移動しかねない。
とりあえず、何かのめりこめるものがあるうちは僕はわりかし幸せに暮らしていけると信じてます。
だけど、こういうのをあえて言葉にしている時点で、もしかしたら何かわだかまっているものが僕の中にまだあるのかもしれません。
※瀬戸口廉也さんの作品なんかは、自分大好きと自分大嫌いの正反対のキャラクターがよく出てくるんですよね。
そういう価値観の意識下でのぶつかり合いみたいなのが僕は好きでして、だいたいははっきりとは結論づかないし、わかりあえないんですけど、それでも何かしら残るものはある。
「俺たちは自由なんだよ。万能ではなくても、とにかく自由なんだ。これはすごいことなんだぜ」
連載コラム、雑記、思い出話「ぼくと、エロゲ 第7話〜燃えゲーいいよね・2007夏〜」
燃えゲーの話をしよう。
燃えゲーとはなんぞや? と仰る御仁のためにかいつまんで説明をすると、やれ銃撃戦やら呪文詠唱合戦やら空中戦で∞の軌道を描く双輪懸を繰り広げたりするエロゲのことである。
2007年初夏――。
むさぼるようにエロゲをプレイしていた僕が、はじめて燃えを意識するきっかけになった作品がこれだ。
パッケージ裏には「我はこの一刀に賭ける修羅」というおよそエロゲらしからぬキャッチコピーが踊り、ジャンルのところにはサイバーパンク武侠篇とある。
(……いや、今でも思うけど、これエロゲとしてはほんと異端中の異端ですわ。こうも硬い作風なんてそうあるもんじゃありません)
当初僕は、この燃えゲーというジャンルへの関心が薄かった。
理由を問われば、なんとなくとしか云えないが、とにもかくにも食指が伸びなかったのである。
タイトルだけなら、デモンベイン、マブラヴオルタ、Fateといったこのジャンルの大ヒット作を知ってはいたし、鬼哭街とライターを同じくするファントムをすでにプレイしたにも関わらずだ。
なのに、鬼哭街との出会いはその認識を一変させてくれたのである。
一言で云うならば、爽快感。
そう、バトル展開ならではのスピーディーな爽快感が実に心地よかったのだ。
メジャー層ウケを一切考えていない極まったシナリオ。
ビジュアルノベルとしての完成度も、2002年の作品とは思えぬほど高かった。
ボイスがなかったり、そもそもストーリーの尺が短めな辺りにコスト削減の跡がうかがえたが、それを踏まえても本当に見事というしかない出来だった。
むしろ、ストーリーのコンパクトさが無駄な贅肉をそぎ落としていたのだろう。
これを機会に、僕は、“燃え” というのもまたストーリーを追及したひとつの形であり、分けて考える必要なんかないことを思い知る。
やれバトルだ燃えだというのは、物語を構成する要素のひとつでしかなく、結局その先にあるのは、ジャンルという括りを超えた物語なのだというのを理解したのだ。
このころプレイした作品のなかでも、特に僕は“モエかん”という作品がお気に入りだった。
本来ならば鬼哭街のようなカチリとした作品のほうが好きなはずなのに、国家に代わり世界を統括する多国籍企業、世界の構成に関わる異能力者、そしてメイドという、食い合わせが良さそうには思えない要素が混ざり合った闇鍋のようなハチャメチャさと、マクロだったりミクロだったりぶれまくってるんだけど感動的なシナリオとが織りなすカオスっぷりが妙にツボに入ったのである。
考えてみれば、燃える展開もあれば泣ける展開も切ない展開もありで、あの当時僕がエロゲに求めていた要素がギュッと詰まっていたからこそ惹かれたのかもしれない。
あとは、燃えゲーを面白いと思えた理由として、ライトノベル文化にあまり触れずに育ってきた僕にとって、単純に活字でのバトルシーンに目新しさがあったのも大きい。
そうしてプレイするエロゲの幅はさらに広がっていき、この辺になってようやく面白そうな作品であればジャンルを気にせず食いつけるようになってくる。
と、同時にプレイしたい作品が多すぎるという贅沢な悩みにも苛まれるようにもなるのであった。
(画像はこの時期プレイしたエロゲいくつか)
※ちなみに僕は誰彼をヤフオクにて上記の値段の10倍で買っちゃいましたよ。なんてこったい。
それと、久しぶりに鬼哭街をプレイしてみて思いましたが、テキストと台詞回しが非の打ち所がないぐらいに作風とマッチしていますねぇ。
やっぱり、あの人はセンスありますよ。
ただ、あくまでもエンタメに徹していたのが、あの時代では軽く見られていた一因だったのかもしれません。
連載コラム、雑記、思い出話「ぼくと、エロゲ 第六話〜50マイルズオーヴァー・2007春〜」
2007年春――
あえて選んでいたのか、それとも名作良作と呼ばれる作品を優先的に選んでいるうちにそうなっていたのか、気がついたら僕は泣きゲーにカテゴライズされる作品ばかりをたて続けてにプレイしていた。
(前も書きましたけど、エロゲ黄金期を追体験していけば泣きゲーと呼ばれるジャンルに勢いがあった時期を通過するのは必然なんですけどね)
しかし、いくら名作良作だからといって似たような系統の作品ばかりプレイしていたら食傷気味になるのも当然である。
そのせいもあってか、レビューサイトや2chで圧倒的名作と名高い“家族計画”をついにプレイしたのに、僕はそこまで感動できなくなっていた。
貶すわけではないが、プレイ前の期待値の高さとプレイ後の満足度の落差がもっとも大きかった作品は何か? と問われたら、僕はこの家族計画を挙げると思う。←黙れザザ虫。
(とはいえ、今プレイしなおしたら、言い回しの妙やら奥深い台詞のひとつひとつに唸らされること間違いなしでしょうけど。今もそう大したことはありませんが、当時の僕は輪をかけて読解力が貧弱でしたので。エロゲーマーとしての経験値も、山田一? 田中ロミオ? それ誰ですか? というレベルでしたし)
そんな中、泣きゲーに食傷気味になってきていることに自分でも気づかず、買い貯めたエロゲを駆り立てられるように消化しつづけていた僕は、とある作品との出会いによって泣くとか鬱になるのとはまた別種の感動を知ることになる。
“ロケットの夏”
云うのもなんだが、この作品以上にガツンと心に響いた作品はたくさんあるし、好きな作品の上位に問答無用で食い込んでくるというわけでもない。
だが、往々にして物事には出会うにふさわしいタイミングというのがあるのだ。
やたら涙を誘う展開に胃もたれをおこしてたところに出会ったこの作品は、僕の心に 爽やかな新風を運び込んだ。
エロゲのくせに爽やかなどというのもおかしな話だが、実際に爽やかだったのだから仕方ない。
だってさぁ、一度は夢敗れた主人公が、仲間のため自分のために再起して宇宙を目指すんだぜ。
この空をどこまでいけば宇宙に辿り着けるか知ってるかい? 高度50マイルさ!
もうね、空の果てまで続くロマンがぎっしり詰まってるわけですよ。
チャレンジャー精神って素晴らしいよね、見返りじゃないよね、っていう。
(厳密にはルートによってテーマが違ってたりもするのだけど、僕にとってこの作品のイメージは、やっぱり挑戦者たちによる爽やかな物語なのだ)
映画のライトスタッフとか、アニメだとオネアミスの翼とか、あの辺が好きなロケット野郎は今すぐにやれ。今すぐだ。
思うが、エロゲに限らず泣けるだとか燃えるだとか、そういうタイプの作品は、一言でイメージが伝わるから面白さを喧伝しやすい。
だから、名作良作と呼ばれる作品にはこの二つのどちらか、あるいは両方にあてはまる作品がとても多い。
そう考えると、ロケットの作品ははっきりとどちらかに当てはまるわけではなかった。そういう要素がないこともないが、一点推しするほどのわかりやすさはない。爽やかというのも結局は僕の主観だ。
なので、情報収集に勤しんでいるときも特別目に留まったとか、期待を寄せていたとか、そんなことはなかった。
だけど、ロケットの夏は紛れもなく良い作品だった。
出会えて良かったと思えるぐらいには。
泣くとか燃えるとか、そういうわかりやすすぎる枠にばかり捕らわれてると、思いがけない名作良作を見逃すこともあるよ、と僕に教えてくれたのがこの作品だったのだ。
※ロケットの夏のシナリオライターさん(focaさん)って、今何してんのかなぁと思ったら、なんと現在ニトロプラスにいるんですもんね。
名義は変わってますけど、ギルティクラウンのノベライズとか進撃の巨人のビジュアルノベルとか、そういうのを担当しているみたいです。
絵師さんのほうはもっと有名になっちゃいましたけど。
コラム、エロゲ「上から出すか、下から出すか、それだけの問題」
「泣くのって、射精するのと同じくらいかそれ以上に気持ちよかったりするんだよね」
といった感じのことを、僕ってばずいぶん前に云ったことがありまして。
もう、何年前だろ?
たぶん二、三年じゃきかないと思います。もっともっと前ですね。僕のエロゲ熱がまだまだ滾ってたころの話です。
あ、当然ながら、エロゲ絡みの話のなかで云った言葉ですよ。泣けるエロゲとかその辺の会話の流れでね。
それで、この言葉自体は長いこと記憶の片隅に追いやられていたのですが、つい最近ふと思い出すような出来事があったんです。
連載コラムを書くに当たって記憶を整理する関係で、ちょいと泣きゲーブームについての情報を集めていたらですね、これがなかなか面白い文章に出会えたんですよ。
http://www.eonet.ne.jp/~ong/opinion/h_naki.html
「泣きゲー批判」と題された、結構前に書かれたコラムなんですが、ここに書かれている内容を読んでくと、まぁ、目から鱗が落ちる落ちる。
特にこの記述、
『 「泣く」とは、カタルシスという言葉で表現されるように、気持ちのいい行為である。泣きゲーとは要するに、プレイヤーが極めて受動的に、「泣き」という快感を享受するジャンルの事だ。泣きゲーはプレイヤーを泣かせれば勝ちであって、その「泣き」の快感が「癒し」と呼ばれる。
…これは、何かに似ていないか? プレイヤーが極めて受動的に、疑似セックスという快感を享受する…。そう、泣きゲーとはオナニーゲーの事だ。泣きゲーは形を変えたオナニーゲーに過ぎず、そのプレイヤーは、精神的なオナニーをしているに過ぎない。』
僕がかつて、泣くことに対して射精を引き合いに出したのは、どこか本質的に近いものを感じたからだったのですが、それがなぜだったのかの答えを今になってみつけられるとは思いもしませんでしたよ。
なんだ、結局のところ同じオナニーなんだ、と。
そりゃあ気持ちがいいわけだ。
最近はとんと少なくなりましたけど、「エロゲで泣くってww」とか云う人も以前は多かったんです。
けどね、それに対する答えなんか至ってシンプルで、
「エロゲで抜くことも泣くことも、等しくオナニーで、気持ちいいからやってるんだ」
これでよかったんですよ。
まぁ、上から下か、どちらから汁をこぼすかの違いですね。シュッシュッシュッ(何かを擦る音)。
それに、どちらもより本能というか、人間の中の理屈じゃない部分に訴えかけてきたり、刺激してきたりするわけじゃないですか。
僕が少し前に書いた連載コラムで、これまでもっとも泣けたエロゲとして三作品ほど初期にプレイしたのを挙げましたけど、あれらも全部がストレートに感情に訴えてくるようなのでしたし。
ただ、上に貼った記事は、わりとそういうのを否定的に書いてるんですよね。
そもそもタイトルが「泣きゲー批判」ですから。
抜くとか泣くとか、そういう本能的な部分にばかり重要視してたら、結局はオナニーの道具以上のものにはなれないよ。AVとかエロ漫画とか、それらとの差別化なんか永遠にできないよ。先細りだよ。と、云ってるわけです。
でも、僕なんかはオナニーだって真剣に考えれば充分に奥深いじゃないかとも思ったりはするんですけど。シャワーとか床とか山芋とか、人それぞれ色々創意工夫のやりようはあるでしょうし。
とはいえ、最近のエロゲーの人気とか見てると、もしかしたら記事を書いた人が危惧してたとおりだったのかもしれないな、と少しは思ったりもしますけど。
あるいは、良い作品があっても、抜けた泣けたの単純原理でしか受け止められなかったのがよくなかったのか。
創作の絡みで、ちょっと考えてみたのは、理屈じゃない部分に訴えるというのは、どうしてもマンネリ化したり馴れちゃったりするから、むしろ理屈の部分に訴えかけるのが面白いやりかただったりもするのかなぁ、なんて。
まぁ、あんまりロジカルすぎるのは個人的には好きじゃありませんが。
しかし、泣けた作品と本当に心に響く作品って、まったくもってイコールじゃないのはそのとおりですね。
付け加えるなら、心に響かなくても思い出に残る作品だってありますし。
そういや、上に貼った記事を書いてる人は、吸血殲鬼ヴェドゴニアについても記事を書いてまして、そっちも読んでみたら、おおっ、と思わされたことがありました。
なんで、虚淵玄さんの作品での悲劇って、起こった出来事以上に重ったるく感じるのかなぁとずっと頭にひっかかってたんですが、記事から引用するところの、「自分の心の弱さに負けてしまう話」が多いからなんですね。
状況じゃなくて、心の弱さに起因する悲劇って、責任の所在がはっきりしすぎちゃうからこそやりきれないものを感じるんでしょうな。
蛍の墓に例えるなら、親戚の家に嫌気がさした兄ちゃんが、妹を意図的にそそのかそて引っ越す理由を自己正当化しちゃうみたいな。
そういや、富野アニメがやたらと暗く感じるのも、ただ悲劇的なだけじゃなく、人間関係のしがらみとか、そういう個々人のジレンマがどうしようもなくこじれたあげくに悲劇にいきつくからなんだよ。という意見をつい最近目にしてうなずかされたっけ。
こういうのって、ちょっとのズレが凄まじい拒否反応を起こしかねないから難しいんですよね。
今度エロゲ原作でアニメ化するホワイトアルバム2なんかは、もろに心の弱さに振り回される話でしょうし。