そこに物語があれば

秋田在住、作家志望兼駆け出しエロゲシナリオライターの雑記

雑記、書き殴りコラム「超人」

 先々週ぐらいからですかね、Eテレで放送してたニーチェの特集がえらくツボにはまってしまって好んで見ていたわけです。
 そんで、今日、いや、もう昨日か……最終回でいつも通り見てたんですが、ちょっと今日のはひときわ考えさせられてしまいまして、メインの執筆を中断して思わず筆を執ってしまいました。ちょいと走り書きっぽいので文が乱れるかもしれませんがご容赦を。
 ニーチェの思想ってのはつまるところ自己肯定に行き着くわけですよ。それも究極的なやつ。
 番組の中では運命愛って言葉を用いて、ある障害者の女性の話を例に出しておりまして、これがどんなのかと言いますと、障害を持って生まれたせいで色々とつらいこともあったけど、そのおかげで今のような自分の人格が形成されたり、いろんな人との出会いがあったわけで、そんな自分の運命を後悔しちゃいませんよ。むしろこんな人生だって何度でも繰り返したいぐらいです。という話だったんですね。(これにはもう一つ永劫回帰ってのも絡んでたりします)
 こういうのを、強がりだ。綺麗事だ。と、鼻白む人がいるのもわかるんですが、やっぱりボクとしてはこういう思想には凄まじくシンパシーを覚えちゃうんです。
 まぁ、この辺は、「醜くても、愚かでも、誰だって人間は素晴らしいです。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は素晴らしいです」みたいな台詞を幾度か抜粋してきましたので、今さらいうまでもないのかもしれませんが。
 それでまぁ、今回何がひときわ考えさせられたのかというと、番組の中で学者先生と精神科の先生が、現代の超人とはどうあるべきかってのを議論してたわけです。
 ニーチェの言う超人ってのは、要は既存の価値観から解き放たれた人って意味ですね。
 精神科医の先生は、究極のひきこもりなんて例えをしてました。
 ひきこもりってのは、大体は社会の価値観と自分の現状を照らし合わせてしまって、劣等感から抜け出せなくなった人がなっちゃうみたいなんですね。
 そして、究極のひきこもりとはなんぞやというと、一種の仙人みたいなもんですわ。 もう、劣等感も羞恥心も関係なし。自分がこう在りたいから在る。っていう、一人で完結しちゃってる人間ですね。
 それで、ここが面白かったんですが。この、「究極のひきこもり」ってのに対して、学者先生が、その「究極のひきこもり」であることを承認してくれる他者が必要なんじゃないかって問いを投げかけたんですよ。
 一人で完結するために他者が必要。
 なんだか矛盾してますね。そんで、このやり取りにボクはなんだか既視感があったんです。
 あれぇ、いったいなんだったかなぁ? と記憶を探ってみて思い出したのが、上に挙げた「醜くても(ry」の出典元であるSWAN SONGに関する議論だったんですよね。
 たしか、醜くても、愚かでも、人間は素晴らしいのかもしれないけど、そのことを認めてあげる誰かが必要なんじゃないか? って、議論だったと思います。
 スワソンの話をすると、主人公の司は、人間としてはかなり高いレベルで完結しちゃってるんだけど、ヒロインの柚香はそうじゃない。でも、司が上記の台詞を言ったりなんなりしてあげたおかげで、最後はちょっとだけ自己肯定できるようになる。
 他者による承認は必要なのか?
 クロスチャンネルだと、主人公の太一は自己完結して一度セカイを閉ざしちゃうんだけど、最終的には「 強くならないと生きる資格がないわけじゃないから 弱いままでも、いいんだよ」って、ななかから承認されることによって救われたりするわけで。
 バガボンドだと、タケゾウや石舟齊は自己完結するのに思い悩むけど、小次郎や一刀齊はハナから極まってたりする。
 まぁ、こんなのはつまるところ、「個人差があります」と言ってしまえばそれまでなんでしょうね。
 あぁ、くそう、当たり前だけどこんなの答えはでねぇよ。あずにゃんペロペロ。
 でも、思うのが、その承認してくれる相手ってのは、誰でもいいというわけではなくて、ジョン・レノンにとってのポールやヨーコみたいな存在でなければダメなんでしょうね。
 それにしても、自分の価値観だけを頼りに生きるってのは、ほんと理想です。やっぱり超人には憧れますしね。そういや、現代にもミノワマンっていう超人が存在するな。思えば、あの人も自分の価値観だけを基準に生きている。そういう意味では彼は本当に超人なのかもしれない。
 じゃあ、俺も自分の価値観で生きてみるか。とりあえず第一歩として、今度から、「面白いエロゲ教えてください」なんて漠然と言われたら、今までのように、ましろ色とか こんにゃく とか かにしのではぐらかさないで、素直に、群青とか僕夏とかカーニバルとかハナチラを勧めるようにしぃよおっと♪